朝ぼらけに立つ ~一年 春・椿~

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朝ぼらけに立つ ~一年 春・椿~

 中学生でいられるのもあと半年を切った、三年生の秋。  周りのクラスメイトたちの進路が着々と決まっていく中、私はといえば半端な気持ちを持て余したままの日々が続いていた。『高校に進学するんだろうな』とは思っていたけれど、自分のやりたいことが見えないままの私は高校受験とはどうしても向き合えず、志望校が未定のまま秋は深まっていった。  楽しかったはずの中学校生活は、息苦しいものへと変わっていく。中の上程度だった成績は目に見えて下がり、なにごとにもやる気が起きず、ますます将来の自分から逃げたくなる。  そんなときだった――進路指導室前の掲示板で、オープンスクールの案内チラシを見かけたのは。  県立橙南高等学校。  開校してまだ十数年ながら自由な校風と盛んな部活動、加えて比較的高い進学率で、受験生からはかなりの人気を誇る高校だ。しかし、私の成績は橙南を受けるとすれば、これからかなり巻き返しをはからないとまず不合格というラインだ。  ――思い切って、行ってみようか。これでやる気がもらえたなら、きっと受験を頑張れる。  今、思い返せばそこまで思い詰めることもなかったように感じるけれど、当時の私はそんな状態だった。特に橙南を志望していたわけではなく、入試、そして今とこれからの自分と正面から向かいあうきっかけが欲しかっただけ、のはずだった。  しかし、背水の陣で臨んだオープンスクールは、私の進路を大きく変えたのだ。 ◆◆◆ 「では、これで終了いたします。長時間お疲れさまでした」  男性教師が締めくくる。約二時間程度の型どおりの説明や見学のなかには私の期待したきっかけなどなかった。生徒の卒業後の進路や入試について一通り説明を受け、校内をぐるりと案内されるとあっけなく終了してしまった。  ――やっぱり、受験が大切なことだとはまだ思えない。けど、今ここで何もせずに帰ってしまって、ほんとうにいいの?  気持ちの整理にはかなりの時間が必要で、他の参加者たちがそそくさと帰途につくのを、しばらくは上の空で見送っていた。  けれど、私はやがて勇気を振り絞って、男性教師のもとへと歩み寄った。説明会を担当した教師、初めて見る『高校の先生』は、私よりも優に頭一つ分くらい背が高い。おそらく今日のために作ったと見える真新しい名札には『橙南高等学校 生物担当 若柳』と記されている。 「……すいません」 「何か?」 「ええと、変なことを聞くかもしれないんですけど」  若柳先生はあからさまに不機嫌そうに、度の強そうなメガネを軽く上げながら私を見下ろす。ややつり上がり涼しげな目元。冷たいまなざしが今にも突き刺さってきそうで、怖い。 「あの、先生は、橙南高校のどこが好きですか」 「別に、変なことではないと思うが――」  さっきまではすごく丁寧な説明だったけれど、うって変わってきつめの口調。『説明会に参加していたのに、今さらそんなことを聞くのか』とでも言いたげだった。  やはり、失礼な質問だったのだろうか。  初対面の人と進んで話をするなんて、普段の私にとっては考えられないことだった。知らない人の視線に出会うと、どうしていいか分からなくなってしまう。友好的な反応でなければなおさらだ。  正直なところ、このまま逃げてしまいたい。しかし、ここまできたら最後まで言わなくては。  高校とは、いったいどういうところなのか。  高校生活とはどんなものなのか。  そう思い直し、勢いを付けて一気に質問を投げかける。 「もう少し、生の学校生活が知りたいんです。さきほど説明していただいたことは、だいたいパンフレットで読んでいたので、事前に知ってることも多くて、その――実際にここで過ごしている先生たちは、どんなところがおすすめだと――思っているのかなって」  だんだん失速してくる言葉が悲しかったが、なんとか言えた。大きく息を吐き、先生の次の言葉を待ってその口元に視線を集中する。 「なるほど。……すまなかった」  やがて、若柳先生は低く通る声で呟いた。 「他の先生からもらったカンニングペーパーどおりだったから、ありきたりでつまらなかったかもしれないな」  見上げると、それまでニコリともしなかった先生の頬が少々ゆがんでいる。笑っている、のだろうか。ほんのわずかに動いた口元とは対照的に、こちらに向けられたメガネの奥の瞳にはほとんど表情が宿っていないように見えた。 「しかし……なかなか難しい。学校施設や進学、部活動以外で、となると」  彼は左手で口元を押さえると、多少うつむき加減でぶつぶつと何事かを唱え始めた。  カンニングペーパーがあったとすれば、きっと不必要なほど丁寧に作られていたものに違いない。先生はそれをそのまま読み上げたのだと容易に推測できる。それとは正反対、今のような不機嫌で無愛想な調子がおそらく若柳先生の地なのだろう。 「あの、そんなに深く考えていただかなくてもいいんです。例えば学食の人気メニューとか、生徒に人気の場所とか、そういう些細なことを聞きたくて。実は、まだ受験勉強に向かう気持ちが湧かなくて、高校生活がもっと身近になれば、やる気が出るかと思ったんです」 「なるほど」  かなり考え込み、なかなか顔を上げようとしなかった先生だが、やがて「ついてきなさい」という声が唐突に降ってきた。 「今、まさにお勧めの場所がある」 ◆◆◆  教室がある棟の二階と隣の棟とを繋ぐ渡り廊下からは、左手には校門、右手には中庭を臨むことができた。  ちょっと立ち止まって窓から外を見渡すと、西日が差し始めている。今日は金曜日。高校もそろそろ授業の終了時刻らしく、早足で校門へと向かう生徒もちらほらと出始めていた。 「降りるぞ」 「あ、すみません」  廊下の向こう側で待ってくれていた先生の姿は、下りの階段へと消えた。 「説明会ではコース外だったが、ここからは理科の特別教室が集中している、通称『実験棟』だ。二階は化学と物理、一階は地学と生物の実験室と教材倉庫」  慌てて追いついた私に、先生は自分のホームグラウンドとも言える理科の特別教室について簡潔に解説してくれる。  この頃になってようやく、人より飲み込みが遅いと自負する私でも先生のペースに慣れてきた。言葉遣いこそぶっきらぼうだが、その会話の中身は決して冷たくはない。ただ、表情の鋭さが近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのは否めない事実だったけれど。 「なんだか薬臭いなと思っていました」 「化学実験用の薬品と生物標本のアルコールやホルマリン、防虫剤などのせいだろうな」 「あ、なるほど」  確かに実験棟には放課後だというのに生徒の姿はなく、冷えた空気に包まれたまま。渡り廊下で行き来できる二階はともかく、わざわざ渡り廊下から階段を降りて来なくてはたどり着けない一階は、恐らく普段からほぼ無人なのだろう。 「そのおかげで、誰もこの辺に近づかない。特に一階は静かでいい」  人気がないことを歓迎するかのような言葉。でも、実際に人付き合いが嫌なら教師になんてならないだろう。ただ、先生は『人嫌い』とまでは言わなくとも、一人で静かに過ごすのが好きそうではあるけれど。 「そこだ」  先生が指さした先は、実験棟の廊下の突き当たりだった。  そこには、『非常口』のランプ――緑の地色に、白抜きで人が走っているマークの付いたものだ――のもと、重そうな防火扉があるだけ。おそらくこの外には非常階段があるはず、だけれど。 「行き止まり、ですよね?」 「いや。……見た方が早い。私のお気に入りで、済まないが」  目を丸くしている私をよそに、若柳先生は扉をゆっくりと開け放った。  薄暗く、やや冷えた空気が漂う実験棟とは百八十度異なる世界が、私を待ち受けていた。  目に飛び込んできたのは、鮮やかな色の洪水が押し寄せるかのような風景だった。実験棟の三階まで届きそうな見事な紅葉の木が数本と、その足下に広がった真っ赤な落ち葉の絨毯。  一枚、また一枚。ひらひらと舞い落ちる真紅のかけらは、敷き詰められた絨毯へと吸い込まれていく。 「見事だろう」 「……はい、すごく」 「学校を建てる際、この土地……まあ山だったんだろうな、ここに自生していたものを残しておいたんだそうだ」 「ほんとうに、すごく、素敵。きれいですね」  月並みな表現しかできない自分が悔しいけれど、そんなことは中学校では教わらなかった。  この高校で過ごしたら、もっといろいろな言葉を知ることができるのだろうか。  葉が降り積もる音に聞き入っていると、若柳先生が隣から手を伸ばすのが見えた。三十センチほどの身長差を埋めるには、私が見上げるか先生が見下ろすかしか手がない。私は思いきり首を反らせ、先生の顔を見上げた。今日は、人生十五年の短い間ながらいちばん首を酷使している日だろう。  私の背では絶対に届かない高い位置、そっと枝に触れるわずかな振動に、何枚かの赤いかけらがはらはらと散っていった。 「先ほどの質問に、うまく答えられただろうか」 「はい。大満足です。ありがとうございました」 「なら、良かった。……さて」  先生は区切りをつけるように言うと私を見下ろし、ふっと息を吐いた。  それから、私が『さて』の続きはいったい何だろうと悩み出すほど間を置いたのち、彼は一言一言を噛みしめるようにゆっくりと話し出した。 「春の若葉の色もまた、格別にいいから。私としては、ぜひ四月にもう一度見てもらいたい」 「え?」  先生の真意を理解できるまで、今度は私のほうに時間が必要だった。  意外な言葉に遅れをとりながらも彼を見上げると、夕日を浴びた顔には暖かなオレンジ色が差していた。真一文字に結ばれていた唇の両端が少しだけ上がり、切れ長の目がわずかに伏せられる。  ほんの一瞬だけ、ただそれだけの変化。  私と目が合ったのに気付くと、先生は視線を外すように橙に染まった顔をやや逸らした。さっきの間は、私を励ますこの一言を紡ぎ出すためのものだったのだ。  逆光を背負った先生が眩しくて、私は大きな瞬きを数回繰り返す。やがて、わざとらしい咳払いが聞こえた。 「何かの縁だ、その時は生物準備室に来なさい。コーヒーの一杯くらいは、淹れるぞ」  先生は最後に「頑張れ」と付け加えてくれた。 「あ……は、はいっ! 頑張ります!」 「ああ。……終了予定時刻を大幅に超過してしまったな。そろそろ日も落ちるし、寒くならないうちに帰った方がいい」  先生は涼しげな顔に戻ると、紅葉にくるりと背を向けて防火扉へと向かう。私も、真っ赤な世界をしっかりと目に焼き付けてからその後を追った。 ◆◆◆  校内に入ったのはまだ四回目。三回目は合格発表、二回目は入試当日。さらにその前は、あの景色に出会った秋の日。  入学式の開始時刻よりもかなり早く橙南高校の門をくぐった私は、実験棟へと急いでいた。  生徒昇降口に貼り出されていたクラス名簿に自分の名前を見つけ、そのまま目線を名簿のいちばん上に戻すと、『学級担任 若柳理雪(生物科)』と記されていた。  若柳先生――ちょっと怖そうな、でも実は優しい先生。  久しぶりに見たその名は赤い世界を鮮明に蘇らせた。いてもたってもいられなくなってほとんど小走りで階段を降り、一階の化学実験室、生物実験室の前を抜けてあの場所の重い扉を開ける。  明るさに目が眩むほどの白い風景がそこには広がっていた。春の光が紅葉の木を淡く輝かせ、甘い香りの風が枝を揺らす。見上げると若葉が重なり合い、いろいろな濃さの緑が白く柔らかい朝日に透けていた。今年は春になっても寒さが残っていて、開ききらない新芽もたくさん見えるが、それもまた初々しく可愛らしい。  半年前に言われた台詞をこっそり繰り返してみる。 「格別にいい。……ほんと、格別。私、ほんとに受かったんだ」  目の前に広がる萌黄色に、実感がやっと湧いてきた。合格発表で貼り出された受験番号や家に届いた手続きの書類以上に、この眺めが今の私にとっていちばん身近な入学の証だ。  すばらしい『お気に入り』と、それに考えて考えてやっと押し出された『四月にもう一度』という先生なりの励まし。表情はすぐに相変わらずの無愛想に戻ってしまったけれど、私の胸にはマニュアルにはない若柳先生自身の感情が込められた言葉が強く残っていた。  ここまで来るのは決して簡単ではなかったけれど、高いハードルを確かに越えて、私は今こうしてここに立っている。  誰もいない早朝の静かな世界を独り占めしていた私は、ギイィという悲鳴のような音に我に返った。比較的新しい校舎に不似合いなその音は、背後の防火扉の蝶番がきしむ音。 それに続き「先客か」と、聞き覚えのあるやや鼻にかかったバリトンの声が響いた。  振り向くと、グレーのスーツの上から、これまた渋いグレーと化した白衣を羽織った男性が防火扉から顔を覗かせている。  メガネ、見上げるほどの長身、涼しさを通り越して冷たさすら感じる目元――若柳先生は湯気が立つマグカップを左手に持ったまま、重い扉を後ろ手に閉じた。コーヒーの香りが、私のもとまで運ばれてくる。  先生は、相変わらず不機嫌そうな顔でぼそっと呟いた。 「ああ……藤倉、だったな?」 「覚えてくださったんですか?」 「印象深かった」  もしかしたら変な質問をした生徒と認識されてるのかもしれないけれど、嬉しいことに変わりはなかった。新生活が始まる今日、少しでも知っている人が身近にいるならそれだけで頼もしい。 「またお会いできて嬉しいです。先生のおっしゃったとおり、春もきれいです」 「ああ」  短い返答と微妙な表情の変化から正確に気持ちを読みとるのは相変わらず至難の技だが、なんとなく自慢気に聞こえる。  木漏れ日の下、しばし沈黙が下りた。  しばらくして、先生は私のすぐ隣まで歩み寄ってきた。思い出したように、「入学おめでとう」と言って、マグカップを口元に運ぶ。メガネが湯気ですうっと曇り、かすむ視界にしかめた顔がスマートな動作とは噛み合わず、つい顔がほころんでしまう。  私は、笑ってしまったのを気付かれないよう、何事もなかったように会話を繋げた。 「クラス分けの発表、見てきました」 「G組だろう?」 「はい」 「学担の若柳理雪だ。よろしく」 「藤倉椿です。……こちらこそ、よろしくお願いします」 「春の季語か。今日の空には、ふさわしいな」 「私もそう思います。この名前、気に入っているんです」  そういえば私は、クラス名簿で初めて先生のフルネームを知ったのだった。『わかやなぎ ただゆき』。雪の字は先生に良く似合う。 「約束を果たさなくてはな。まだ入学式まで時間があるが、コーヒーは好きか?」 「はい!」  先生は一度深く頷き私を見ると、今出てきたばかりの扉に再び向かった。  鋭い視線にも、あの日の怖さはもう感じない。扉を開く先生の背中を見ながら考えるのは、高校生活への期待と希望ばかりだ。
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