ビニール傘

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 雨の中を歩くのは、嫌いじゃない。人通りの減った雨の街が好きだから。  傘をさしている分だけ、隣の先輩との距離が離れてしまうのは、少し不満ではあるけれど。  大方の下校時間からずれる様に、教室で少し勉強を教えてもらって。静かになった下校路を並んで歩く。風もなく梅雨らしいしとしととした雨は、傘で簡単に防ぐことができた。  傘をさしている先輩を見て、思い出したことがある。 「そういえば、中学校の頃は、雨の日も毎日裏門にいましたよね」 「ああ、そう言えばそうだったな」  先輩は思い出すようなそぶりも見せず、簡単に答えた。たった三年前まで、毎日の出来事だったのだから、思い出すようなことではないのだろう。  私たちの中学校では、生徒はみんな自転車通学で、駐輪場のある裏門から学校へ入っていくのが普通だった。そしてその裏門には、学年生徒会が立って、毎日あいさつ運動を行っていた。  あいさつ運動といったって、ただ登校してきた生徒に「おはようございます」と声をかけるだけだ。それも当番制で、本当なら週に一回、決められた曜日にやればいい。  でも、先輩は毎日そこに立っていた。しかも、秋には落ち葉の掃き掃除をし、冬には雪かきまでしながら。雨でも雪でも台風でさえも気にせず、毎日立ち続ける姿は、一つ下の学年生徒会だった私の印象に、鮮明に残っている。  あの当時、先輩の名前を知らない生徒はいても、顔を知らない生徒はきっと学校中にいなかったと思う。今の人付き合いを極力避けている先輩からは、考えられないことだけど。 「どうして毎日、あいさつ運動やってたんですか?」  確かこんなことを、中学生の時も聞いた気がする。その時は「習慣だからね」なんて答えられたような気がするけれど。 「んー、まあ、最初はなりゆきだったな。中学校入ってすぐ学年生徒会に任命されて、家が近かったから最初の当番になって。朝教室にいたってすることはないし、ならあいさつ行くかって毎日顔出すようになって」 「それで三年間ですか?」 「途中からは義務感みたいなのもあったな。俺がやらなきゃって。そんなことは全然なかったんだけどさ。……それとまあ、誰かの役に立ってるような気がしてたんだ」 「役に立つ?」 「そう。今思えばそんなことなかったのかもしれないけど。俺があいさつすることで、相手が元気になってくれるかなって。そう思ってたんだ。そしたら休めないだろう?」  同意を求める様に、先輩がこちらを向く。  この先輩ならそうだろうと思う。人付き合いは大嫌いなくせに、他人のためになるならなんだってやろうとする人だ。中学生の頃は、人付き合いもそこまで避けていなかったし。 「先輩なら、休めなくなりそうですね」 「だろ? とはいえ、今また同じことやれって言われても、もうできないだろうけどな」 「どうしてですか?」 「あんな目立つようなことはもうしたくないってのもあるし、あれが誰かの役に立ってるとも思えなくなったからな」 「そうですか? 先輩のあいさつで元気が出た人だって、きっといたと思いますけど」  元気が出るのとは違うけれど、頑張っている人を見ることは、それなりに励みになる。現に私だって、当番の日くらいは頑張ろうと、先輩を見て思っていたのだ。 「何人か、そういう人がいたとしても、他の人は逆だったかもしれない。元気がない時に、無理に元気出せって言われたらやだろう? 俺がやってたのは、善意の押し売りみたいなものさ」  そんなことまで考えていたら、何もできないじゃないですか。  そう言おうかとも思ったけど、やめる。  そんなふうに考えるから、この先輩は人付き合いが大嫌いで、他人にすごく優しいのだ。  だから、違うことを聞く。 「じゃあ、今はどんなふうにしていたいんですか?」 「どんなふう?」 「人の役に立つ方法ですよ。生徒会とか、クラス代表とか、そういう目立つやり方はもうしないとして。不特定多数への善意の押し売りもしないとして。でも、私に勉強教えてくれたりしてるでしょ? 今はどういうふうに、人の役に立ちたいんですか?」  そう聞くと、先輩は空を見上げた。ビニール傘越しに雨粒と空を見て考えている。そうしてしばらく無言で歩いてから、視線を前に戻して言った。 「そうだな。…………俺は、ビニール傘かな」 「ビニール傘?」 「そう。必要な時に雨を防いで、いらなくなったら簡単に捨てられる。あるいは電車やトイレに忘れても気にならないような。俺はそのくらいがちょうどいい」  私は自分の傘を見あげる。紺地に赤のチェック模様が入ったお気に入りの傘。壊れないように大事に使っているし、もしなくしたら必死に探すだろう。それにそもそもなくさないように注意もしている。  そんなお気に入りの傘がある私も、いつもこの傘を持ち歩いているわけじゃない。梅雨時の今ならまだしも、突然の夕立などにあえば、コンビニでその場しのぎのビニール傘を買うだろう。風で骨が折れれば、イラついてももったいないとは思わない。家まで雨をしのいでくれればそれで十分。さすがにわざと電車に捨ててくるようなことはしないけれど、それは道徳的にまずいからであって、使い物にならないなら捨てたい気持ちはある。  傘なのだから、雨を防ぐのは当たり前。  安物だから、なくしたところで惜しくない。 「それって、悲しくないですか? いいじゃないですか、普通に立派な傘で。誰かをずっと雨から守れるような、丈夫な傘で」  傘たてに突っ込まれたら、見分けがつかなくなるような。そんな量産された、ありがちなものじゃなくて。誰かにとっての大切な一本。そうなるだけの優しさが、先輩にはあるのに。 「ずっと誰かのそばにってのは、性に合わないかな。そこまで俺に価値があるとも、思ってないし。でも、そうだな……」  先輩はそこで言葉を切って。私の方へと顔を向けた。 「安物のビニール傘でも大事にしてるような、そんなちょっと変わった人の隣になら。いてもいいって思えるかもな」  先輩はあまり、相手に話をふらない。何か聞かれたら、答えてそれでおしまいだ。相手に興味がないというよりは、話すも話さないも自由にしていいよ、ということなのだと思う。だって、私が話したことは、だいたい覚えていてくれるから。 「いるといいですね、そういう人」 「まぁ、いなくてもいいけどな」  私と先輩は、一緒に小さく笑った。
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