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【十】 港町にて
「ああ、知ってますよ。あの親子ね。外れの古い空き家に住み着いて、十日ほどに」
「娘のほうが都の医者にも匙を投げられた病だとかで、大陸へ渡りたいと」
「可哀想にねえ」
「船に働き口がないかと尋ねられましたよ」
魚売りの女達は尋ねてきた若い男を取り囲み、親子の容姿から住み着いているという空き家の場所まで驚くほど詳しく教えてくれた。若い男は興味深げにその話を聞き、話題が女連中得意の噂話に移ろうとしたところでにこやかに切り上げた。
「有難う。彼は私の知人なのです。娘さんの話を聞いて、力になってやりたいと思いまして。早速その家に向かってみます」
それは勿論今聞いた話を切り貼りした出まかせであるのだが、女達は若い男の背中に向けて、まあ感心だの、気持ちの良い方ねだのと聞こえるようにまた話の種にするものだから、若者は多少の罪悪感に心を痛めた。
「赤蜂殿。あの木霊はこの近くに潜んでいる様子。」
角を曲がり路地で待つ主の元へと戻った若者は声を潜めて告げた。主は顔を隠していた襟巻きを緩め、短い顎髭を撫でる。
「人里へ下りるとは、思い切った事をする」
「その方が紛れられると思ったのでしょうか」
「あるいはな。単純に向こうに渡りたいというのが真なのやも知れん。どちらでも構わんが」
赤蜂は路地の向こうに僅かに覗く水平線に目を細めた。あの木霊は元々大陸の生まれと聞いている。故郷に戻りたいと考えるのは不思議ではない。
「ただ、ここでもやはり親子、と言われています。木霊は兎も角、あれは見るからに人ではありませんが、手引きをする者がいる、ということでしょうか」
若者は首を捻った。どこで話を聞いても逃げた木霊と思しき子供に連れ添うのは父親を名乗る男であった。封を解かれた怪物については噂の最初の出所であった例の山中の木霊どもの話以来、影も形も見当たらない。
「わからん。まあ、その男に問い質すのが早かろう」
赤蜂の目が鋭く光った。若者は頷きつつも暗い思いを抱えていた。赤蜂も出来ればあの木霊を生かしてやりたいと思っている筈だが、赤蜂は自らの目的の為なら心を鬼に出来る。自分で決めた事とはいえ、その一部始終を見届けるのにはやはり躊躇があった。
「今日はその空き家に居るはずとの事ですが、すぐに向かいますか」
若者は気落ちを悟られぬよう必死で己を鼓舞し平静を装う。それに気づいてか気付かずか、恐らくは気づいていて、しかし何も言わず若者の背を叩いて促した。
「うむ。案内せい」
*****
長らく空き家だったと言うだけあって、その家は相当に傷んでいた。壁は朽ちかけ、赤い石瓦も一部が崩れ落ちている。
「おい、誰か。誰かおらぬか」
若者が先導し、赤蜂が後に続く。空き家からは何の返事もなく、物音のひとつもしない。若者は敷地に足を踏み入れ、石屏風を回り込んで戸口に立った。戸は開け放たれている。
「留守か」
呟きながら床の縁に膝をかけ中を覗き込もうとした若者の首に、戸の陰から浅黒い腕が伸びた。
「あ……」
「嵩雄ッ!」
上官が若者の名を叫ぶ。咄嗟のことに対処しきれず、若者は屋内に引きずり込まれ片腕を後ろに捻り上げられた。首筋に冷たいものが当たっている。
「動くな。動けば掻っ切る」
頭上で掠れた低い声がした。赤蜂ほどではないが上背のある男だ。長い黒髪が若者の顔の横に垂れた。
「何をしに来た、軍司」
男は外の赤蜂に向かって凄んだ。
「気づいていたか」
赤蜂は落ち着いた様子で答えた。座敷の奥から小さな足音が近づき、辺りに花の香りが満ちる。若者の背後にいる男の更に後ろから少女の声がした。
「お前はこわいにおいがするから遠くからでもわかるぞ」
それは紛れもなくあの木霊の声であった。木霊が背後の男にしがみつく気配がした。若者はその愛らしい翠の眼を思い出す。その目が次第に曇ってゆくのに何もできなかった己の情け無さも。
「木霊の勘を甘く見ておったな。……して、貴様、あの化け物か」
「失せよ、でなければ此奴を殺す」
赤蜂と男は互いに動じない。が、男には若干の焦りが感じられる。力ずくで排するつもりであるなら油断していた若者などさっさと殺せば良い。そうしないのは恐らく、それが出来ないからだ。
「随分小さくなったではないか化け物。人に化けるとは、一体どんな呪法を使った」
赤蜂は戸口に一歩近づいた。若者の首筋に当てられた刃物に少しだけ力が込められる。毀れた刃が皮膚を小さく引っ掛けた。
「雑兵の一人や二人を殺したところで少しも心は痛まぬぞ。おれはそのような生き物だ」
男の脅しに、赤蜂はぴくりと眉を動かした。
「この赤蜂の懐刀を雑兵扱いか。舐められたものだな」
怒りを露わにした赤蜂が座敷に土足で踏み込んだ。僅かに後ずさろうとする気配があったが、男は動かなかった。
「貴様は死にたいのではなかったか。人の形を得て欲が出たか?」
畳一枚分程の距離を隔てて対峙した赤蜂は男を見下ろし声を荒げた。男は若者の首に刃物を更に押し付け、木霊は男の着物の裾を握りしめたらしく、きりりと衣摺れの音がする。
「違う」
半分震えた声で男は答えた。浅く早かった息がしばしの間止まる。男は聞こえぬ程の声で「違う」と繰り返した。かぶりを振り深く大きく息をついて、続ける。
「おれの罪はとても現世で贖えるものではない。地獄へ行けと言うならば無論喜んでそうする。しかし事情が変わった。今はだめだ」
声はもう震えてはいなかった。その切なる声音に若者は少し戸惑った。赤蜂の方を見れば、怒りの形相がやや緩んだように思われた。
「その木霊のためか」
「そうだ」
「では木霊を俺が引き受けよう、と言ったらどうする。ここで死ぬか」
これには男が答える前に木霊が口を開いた。
「ふざけるな。おまえは一度も、わちを助けはしなかった」
多分に非難を含んだその言葉に赤蜂は一瞬目を大きく見開き、何事か思いを巡らして項垂れ、それからばりばりと頭を掻いた。
「嫌われたものだな。だからあの時も出てこなかったのか」
赤蜂から今の今まで隠しもせず振りまかれていた殺気が消えた。声音に含まれた棘も収められている。
「当たり前じゃ」
木霊が怒ったような声をあげたその時、赤蜂は突然その場に片膝をついた。その目は真っ直ぐ木霊を見据えている。
「それは俺の不徳の致す所だ。許せとは言わん」
素直に非を認められ、木霊は狼狽えた。振り上げかけた拳のやり場を失ってただぬう、とだけ唸る。男も怪訝そうに息を漏らした。
「何をしに来た、か。無論、帝の所有物でありながら巫山戯た行いを働いた阿呆を始末しに」
赤蜂は再び立ち上がったが、やはり殺気は認められない。その言葉もどちらかと言えば冗談めかしているかのように聞こえさえした。
「化け物もついでに殺して良いと言われたが」
男に目を向けるその時だけ、赤蜂の目にわずかな嫌悪が走る。
「ついでに、か。舐めているのはそちらではないか」
男は気色ばんだ。警戒は解かず、若者を押さえつける腕は緩まない。
「ふん、本当は貴様だけでもこの手で絞め殺してやりたいが。生憎、貴様には別の用があってな」
「何だと」
赤蜂は男には答えず、木霊に問うた。
「時に木霊、帝が憎いか」
「え」
突然のことに木霊が答えられずにいると、赤蜂が更に畳み掛ける。
「帝が憎いかと聞いている」
木霊は少しの間その言葉の意味を考えているようだったが、やがて男の背中から離れ一歩進み出て、はっきりと答えた。
「憎い」
赤蜂がにやりと唇を上げた。若者も内心安堵した。ある程度当て込んでいたとはいえ、これで大義名分ができた。木霊を殺さない理由が。
「そうか。ならば機会をやろう」
男と木霊は互いに顔を見合わせた。
「どういう事じゃ」
赤蜂は男の方を睨み、相変わらず若者の喉元に押し当てられている刃物を顎で示した。
「まずはそいつを離せ。先に幾らか聞きたい事もある」
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