庭の虫

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それはいつもと変わらない朝。 耳元にある目覚まし時計が鳴り、家族の誰よりも早く私の一日が始まる。 隣で寝ている旦那は、目覚まし時計が鳴ってもお構いなしに眠っている。 すでに朝日が昇り、寝室はカーテンが閉まっていても明るい。 スズメのさえずりと、新聞配達のバイクの音が聞こえる。 目覚まし時計を止めてベッドから起き上がると、愛する家族の朝食とお弁当を作るためにキッチンへ向かう。 と、その前にリビングのカーテンを開けなくては。 庭から差し込む朝日で、キッチンまでも明るくなる。 今日は、昨日と違ってカーテンを開ける前から晴天だということがわかる。 白いカーテンは輝き、隙間から光が漏れている。 私は思い切り、カーテンを開けた。 眩しい光と雲一つない青い空。 庭には前の日、降り続いた雨で小さな水溜まりが出来ていた。 私は、洗濯日和になって良かったと、胸を躍らせながらキッチンへ向かおうとした。 その時、ふと視界の隅で赤いものが一瞬見えた。 朝食の時間が迫っていたものの、私は気になりもう一度庭を覗いた。 そこには、赤い傘が庭に刺さり不自然に立っていた。 「どうして、あんなところに傘が?」 その時の私は、どうして赤い傘が刺さっているのか疑問はあったけれど、その光景に少し笑ってしまうぐらいの余裕があった。 家族に見せたら、どんな反応するかしら。 と、反応を楽しみにするぐらい。 12歳になる長女は弟のいたずらだと思い、8歳になる息子は赤い傘を指差して笑い、旦那は雨の神様の忘れ物だよ、と言って長女を白けさせた。 息子は自分ではないと否定したし、きっといつも家の前の道で遊んでいる子供たちの仕業だろうと、あまり気にはしなかった。 旦那と子供たちを送り出した後、私は洗濯機のスイッチを入れて家事を済ませると、私は軒下に置いてあるサンダルを履いて庭に出た。 庭の土は、まだ湿っていて柔らかい。 赤い傘は、半開きの状態で地面に石突から垂直に刺さっている。 どうやら、我が家の傘ではなさそうだ。 庭に足跡はない。 私は赤い傘の手元を握り引き抜こうとした。 けれど、想像よりも深く刺さっているのか、力を込めてようやく引き抜けた。 しかも、その赤い傘はずっしりと重かった。 それもそのはず。 傘の内側には、前日降り続いた雨が赤茶色となって溜まっていた。 よく見れば赤い傘の表面はボロボロで、何本かの骨は折れているし、棒の部分はひどく錆びていた。 一体、誰がこんないたずらを。 と、ゴミが増えたことにため息をつきながら、赤い傘に溜まった錆びた水を捨てると、私は軒下に放り投げた。 そして、二日分の洗濯物を干し終えると、部屋に戻って仕事をしたり、夕食の買い物に出掛けたりと忙しく、赤い傘の事などすっかり忘れていた。 それは、家族も同じだった。 翌日、私は目覚ましの音で目を覚まし、ベッドから起き上がるとリビングに向かった。 眠気眼でリビングのカーテンを開けると、私の眠気が一気に吹き飛んだ。 何故なら、庭にはまた同じ場所に赤い傘が刺さっていたから。 「え、また?」 私はそのまま庭に出て、赤い傘に近づいた。 私の中で一抹の不安が過った。 昨日は雨が降っていなかったこともあり、引き抜いた赤い傘は軽かった。 「どうしたの?」 珍しく早く起きた旦那が、リビングから私を見てそう言った。 私は手に持っていた赤い傘を旦那に見せながら、また庭に刺さっていた事を伝えた。 「足跡はない?」 旦那にそう言われ、私は赤い傘が刺さっていた付近を調べたが、足跡らしきものは見当たらなかった。 楽観視している旦那は、とにかくもう少し様子を見ようと言い、赤い傘はちょうど燃えないゴミの日だから後で出しておく、と旦那が玄関の方へ持っていった。 朝食を終えた後、旦那は約束通りに赤い傘を持って、子供たちと家を出た。 こっそりゴミ捨て場を見ると、確かに赤い傘が捨てられていた。 旦那は、「赤い傘はもう捨てたから、心配いらない」と言ってくれたが、不安は消えなかった。 翌日、嫌な予感がして目を覚ました。 心臓がドクドクと脈を打つ。 私は不安な気持ちで寝室を出た。 リビングのカーテンは朝日で輝いているのに、私はその向こう側に恐れていた。 そっとカーテンの端を掴み、恐る恐る庭を覗いた。 そこには、捨てたはずの赤い傘がまた庭に刺さっていて、しかもその隣には何故かビニール傘が一本刺さっていた。 「嘘、なんで……」 私はカーテンを思い切り開けると、庭に飛び出し二本の傘を引き抜いた。 どちらも深く突き刺さり、引き抜くのが大変だった。 赤い傘の方は、捨てたものとまったく同じものに見えた。 ビニール傘の方も、ボロボロで骨は折れていた。 どちらもゴミの傘だ。 誰がこんな嫌がらせを。 でも、子供たちには心配かけたくはなく、私はその二本の傘をそっと軒下に置くと、普段通りに朝食の準備に取り掛かった。 旦那と子供たちを送り出した後、私は近所に住む友人にメールで相談をしてみた。 返事はなかなか来ず、家事も仕事も手に着かないまま時間だけが過ぎた。 昼過ぎになり、友人からメールの返事が返ってきた。 「返事が遅くなってごめんね。私の家にはそんないたずらはないけど、一緒にいた隣町に住む友達に言ってみたら、思い当たる事があるって。隣町では、ちょっとした噂になっている人がいるらしい。夜な夜なリアカーを引きながら歩く、怪しげなおばあさんがいて、人の家の庭を覗いてはニヤニヤ笑っているんだって。そのおばあさんの引くリアカーには、破れた布がかかっていて、その下には木箱とたくさんの傘が入ってたって。すごく臭くて、死体でも運んでいるんじゃないかって噂されたぐらいよ(笑)」 私は確信した。 そのおばあさんが、我が家の庭に傘を刺す嫌がらせをしていると。 メールの中で死体と書かれていたことに、私はゾッとした。 まさか、我が家の庭に死体を埋める気じゃ。 不安になった私は、旦那が帰って来た後でメールを見せながら相談をした。 けれど、旦那はただの噂だろうと笑って、真面目に取り合ってはくれなかった。 警察に相談しようかという私に、旦那は大げさだと言った。 ただ庭に傘が刺さっているだけで、特に被害はないのだから。 旦那は子供のいたずらだと信じ、そのうち飽きてやめるだろうから気にするな、と言った。 その夜、旦那も子供たちも寝た後で、私はそっと家の外に出て噂のリアカーのおばあさんが来ないか、庭に誰か侵入して来ないかを監視していた。 賑わう昼間と打って変わり、夜はまるで人気がない。 街灯が続く道の向こうから、こちらに向かって歩いてくる人影と足音が聞こえたけれど、それは近所に住む田中さんの旦那さんだった。 田中さんは私と顔を合わせるなり、どうしたのかという顔をしながら挨拶をした。 事情を知らない人からしたら、私の方が不審者かもしれない。 私は家に入ると、もう一度庭を覗いた。 もちろん、誰もいないし傘も刺さっていない。 すでに時計は十二時を過ぎ、私の睡魔も限界が来たところで、明日には何事もない一日が待っていますようにと願いながら、寝室で眠りについたのだった。 けれど、状況はよくなるどころか悪化した。 翌朝、私は目覚ましが鳴る前に目を覚まし、リビングに向かうとカーテンを開けると、穏やかな明るい日差しと、庭にいたスズメが一斉に飛び立った。 そして、目に映る光景は異様なものだった。 地面に刺さる赤い傘と、その両脇には二本のビニール傘が刺さっていた。 これで三本になった。 そればかりか、傘の本数は日に日に増えていった。 翌日には、ビニール傘がまた一本増えて四本になり、そのまた次の日には合計五本になった。 庭に卒塔婆のように、五本の傘が立っていた。 子供たちも、日に日に軒下の壊れた傘が増えていくのを目の当たりにし、不安を口にするようになった。 すると、ようやく旦那もことの重大さに気づいたのか、その日はいつもよりも早く家に帰って来ては、途中で買って来たという防犯カメラを庭に設置した。 防犯カメラは旦那のパソコンと繋げ、寝ているあいだも録画されるという。 「これで、犯人が特定できる」 と旦那は言った。 恐れと不安を胸に、私はパソコンモニターの前で夜が更けるのを待った。 しばらくは旦那も一緒になってモニターを見ていたけれど、途中で睡魔に負けたのか寝室に行ってしまった。 私は一人、睡魔に負けそうになりながらもモニターを監視していた。 時間は三時過ぎ。 それまでなかったモニターの映像に、ノイズが起こるようになった。 白黒の暗視画面が、見えづらくなってしまった。 その時、玄関の方から庭に人影が近づいてくるのが見えた。 近づいてくる人影は、ボサボサの短い髪に、腰はひどく曲がった、背の小さなふくよかなおばあさんだった。 手には、先端の尖ったビニール傘のようなものを持っていた。 私は、噂のおばあさんだと思った。 おばあさんは庭に立ち止まると、何かを探すように辺りを見回して軒下の方へ移動した。 そこは防犯カメラの範囲外で、一瞬家の中への侵入を恐れたがそうではなかった。 軒下に置いた五本の傘を取りに行ったようで、再びモニターに映りこんだ時には、赤い傘とビニール傘を手に持っていた。 そして、赤い傘を右手に持つと、同じ場所に思い切り突き刺した。 それ以外にも、抜いた場所に残った穴へ再び傘を刺していった。 新たに持ってきたビニール傘も、その周りをウロウロと歩き回った後で地面に突き刺した。 卒塔婆のように刺さった傘を見ながら、おばあさんは何か呟いているようだった。 庭に行けば、あのおばあさんを捕まえることが出来る。 旦那を起こし、あのおばあさんに注意してもらおうと立ち上がった瞬間、モニターに映るおばあさんはこちらを向いた。 完全に防犯カメラの存在に気づいていた。 モニター越しに、おばあさんが近づいてくる。 おばあさんはカメラに向かって、ほとんど残っていない歯を見せてニッカリと笑った。 そして、口を動かし何かを話しているようで、私はモニターの音量を上げた。 スピーカーから、ざらついた声が聞こえてきた。 「ここにはいい虫がいるよ。もうすぐ出てくるよ」 ヒヒヒとおばあさんは笑った。 虫? 何を言っているのか、私にはわからなかった。 すると、おばあさんの背後に映る赤い傘が、僅かに揺れはじめた。 その揺れは、伝染するかのように周りに刺さった傘にも伝わった。 おばあさんはその気配に気づき、また庭の方へ歩いて行った。 ボコボコと庭の土が動いているように見える。 モニターに、またノイズが走った。 おばあさんは、庭に刺さった赤い傘を思い切り引き抜いた。 すると、赤い傘にまとわりつくように、黒くて細長い影の一部が土の中から現れた。 大きなミミズのような、蛇のような、はっきりは見えない。 これが、おばあさんのいう虫なのだろうか。 こんなものが、我が家の庭に住んでいたなんて……。 おばあさんは、現れた黒くて細長い虫の先端を握りしめると、土の中から引っ張り上げた。 それは、二メートルはありそうな長さだった。 すると、おばあさんはその先端に噛り付きムシャムシャと食べ始めた。 尻尾がクネクネと暴れまわっている。 モニター越しに見ても、私は気分が悪くなり吐きそうになってしまった。 半分ほど食べたところで、おばあさんはそれを引きずって庭から出て行った。 私は、捕まえなくちゃと思い、慌てて寝室を飛び出し玄関に向かった。 玄関のドアを開けると、門の向こうでリアカーを引いたおばあさんが横切るのが見えた。 駆け寄ろうと玄関から一歩踏み出した時、リアカーからウネウネとした大きな蛇のようなものが何匹も布の隙間から顔を出し、私はゾッとして足を止めてしまった。 リアカーが門の前を通り過ぎた後、慌てて前の通りに出てみたが、すでにリアカーもおばあさんの姿も消えていた。 庭に戻ると、耕した土のように表面がボコボコと波を打ち、刺さっていた傘は倒れていた。 けれど、赤い傘だけはなくなっていた。 あのおばあさんは一体、ここから何を抜き出したのだろうか。 黒くて細長い虫。 私には蛇のように見えたけれど。 それが何なのか、理解するのにそう時間はかからなかった。 あれから、家の庭に傘が刺さっていることも、リアカーを引いたおばあさんの姿も見かけることはなかった。 安堵したのも束の間、我が家に不幸がどんどん降りかかるようになった。 娘が学校の体育の時間に怪我をしたのを皮切りに、息子が原因不明の高熱で入院。 旦那の勤める会社が、社長の不正によって倒産。 私が続けていた仕事も打ち切りとなった。 それぞれのストレスが募っていき、今までほとんどなかった喧嘩が絶えなくなった。 挙句、家に泥棒が入り散々な目にあった。 私は思った。 あの日、リアカーのおばあさんが庭から盗んでいった虫とは、家や土地を守る神様だったのではないだろうかと。 その証拠に、友人が聞いたという隣町でおばあさんを見かけたという話。 ある家の庭でおばさんを見かけ、注意をすると不気味な笑みを浮かべて立ち去ったが、その家はその後すぐに一家離散し、家は廃屋になったという。 あれから色々あったが、私たちは家を引き払いマンションを借りた。 すると、途端に旦那の再就職が決まり、打ち切りになった私の仕事も再開することができ、生活が元通りになっていった。 子供たちの苛立ちも減り、家族はまた仲良く暮らせるようになった。 ちなみに、庭の虫が消えた私たちのあの家は、未だに買い手がつかないようだ。
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