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黒い手帳
その日、サトシはいつもよりイライラしていた。 パチンコが出ない上に後少しで近くのコンビニのバイトに行かなくてはならなかったからだ。
バイトがあるだけましだ。サトシは思う。このバイトがクビになると、生活すらままならない。以前やっていた石膏ボード運びの仕事に泣きつくしかなくなる。
この日雇い仕事は地獄だった。朝8時から夕方5時まで石膏ボードを5~6枚持ち上げ建設中のビルの階段をひたすら往復し、所定の位置に重ねていくのである。
どんなにきつくても運び続けなければならない。一度はあまりのキツさに足がつった事もある。
それでも日当は一万円である。いつ出ても、出なくても構わないがよほど体力に自信がないと、続かない仕事だ。あの仕事には戻りたくない。
そのてん、コンビニのバイトは楽である。客がいない時はぼーっとしていればすむし、気が合う女の子とおしゃべりもできる。しかし、そんな時間はめったになく、いつもは客でごった返している。
サトシは最近気になっている男がいる。いつも同じ黒いジャンパーを着て下はジーンズにスニーカー。何時もマイナーな台を打ち、玉の山を築いている男…年は30代か、サトシとはひとまわり上と見受けられる。とにかくほぼ毎日勝っていることは容易に推測がつく。いつもいくらぐらい勝っているんだろうか…興味はつきない。
バイトの時間だ。通りがかりに男がいつも座っているシマを横目で見ると、男は今日も出してドル箱タワーを築いている。
なんだか悔しい思いをしながら大阪、天満にあるコンビニにバイトにいく。今日はシフトの関係で三時間。いつものように、淡々と仕事をこなす。時給は1000円、今日はたったの3000円だ。かろうじて命をつないでいるに過ぎない毎日だ。
給料が月8万円に届かない事もたびたびある。そんな時は卵かけご飯で凌ぐ毎日だ。そんな生活をしてたら体を壊してしまう。どうにかしなけりゃいけないなとはいつも思っている。
バイトも終わり自由になった。よく行く食堂に入ると、あの男が中華定食を食べていた。サトシが話かけようか迷っているとビールを2本空にし、そそくさと出てしまった。
サトシも中華定食を注文すると、あの男が忘れていったのか、黒い手帳がそのままになっていた。
明日返してやろうとその手帳を胸のポケットにしまいこむ。
帰りの電車で、気になっていたあの手帳を誘惑に負けて悪いとは思いながらもつい見てしまった。
手帳は左側に一週間の日にち、右側は雑記帳になっているごく普通のもので、基本はスケジュール管理をするやつだ。しかしそこに書いてあったのは何らかの数字の羅列であった。
「収支帳やんか!」
そこには毎日どれだけ突っ込んで、どれだけ出したか、それから計算し、どれだけ勝って、どれだけ負けたかが事細かに記されていた。
驚く事に一見すると7割以上も勝っている。7割とは驚異的な数字だ。普通5割にも届かない。げんにサトシがそうだ。自分は3割ほどではないのか…それならトータルで負けても当然である。
とにかく明日返す時にそっと聞いてみようと思いながら、また内ポケットにしまった。
次の日 あの男が大勢の客と一緒に 並んでいた 。サトシは 男を見つけ出し声をかける。「 あのー この手帳 昨日食堂に忘れてたんじゃないでしょうか」「あぁ、 悪いなー おおきにな」
男は手帳を受け取ると、また知らないふりをするように前を見た。
「それで、その手帳についてお聞きしたいことがあるんですけど」
サトシがそう言うと、男は憮然として、物憂げに振り返る。
「休憩取ったら聞いてやるわ」
そう言うと大勢の客と一緒に店内に消えていった。
大阪のパチンコ屋は朝、凄まじい台の取り合いになる。出している店ならなおのこと台とり合戦が激しくなり、しまいにはケンカまで起こる始末だ。今日も一台をめぐって掴み合いである。まわりの奴等が中に入ってようやく事なきを得る。
サトシは男がいつも打っているシマで、男から5台ほど離れたところにタバコを投げて席を確保した。
海シリーズのもう客が離れてしまったシマだ。
サトシも打ち始めた。今日は6000円で当たってくれた。4連チャンし、足下に3箱積んだ。滑り出しは上々だ。
今日はこの頃出てないので、久しぶりに出る気がする。しかし後が続かない。あまり回りもよくない。足下の3箱はとうに消えていった。 男が休憩を取った。サトシもそれに続き、休憩の札をもらう。
少し小柄なその男はなにか考え事をしているようであったが、行き先を決めたようだ。近所の喫茶店に入っていった。
二人ともそろってコーヒーとスパゲティーを注文する。きまりの悪い時間だけが過ぎていく。男はサトシの方をずっと見ている。スパゲティーがやってきた。男は無言で食べ始める。
「あのー」
サトシが遠慮がちに問い始める。
「お名前はなんとお呼びすればいいんでしょうか?」
男が少し考えた後返した。
「和人だ」
「じゃあ、カズさんですね。その手帳、悪いと思いながらもつい見てしまいました。それは収支帳ですよね」
またきまりの悪い時間が過ぎる。どう接していいか分からない。
「早く食わないと冷えてしまうぞ」
朝までの大阪弁とはがらりと変わり、標準語をしゃべった。
サトシがスパゲティーを食べ始めるとカズが手帳について話始める。
「これはな、収支をプラスマイナス逆につけてる逆収支帳なんだよ。電話帳に浮気相手の名前…そうだなぁ、秋子だったら秋男にするとかやるだろう。それと同じだ。」
カズはコーヒーに砂糖とミルクを入れて飲み始める。
「こうしてないと嫁さんにどやされるんだよ。」
―それは嘘だ。とサトシは思った。 それが本当ならカズは毎月数十万円も負けていることになる。
サトシは思いきって頭を下げた。「お願いします。弟子にしてほしいんです。僕はフリーターでいつ金が尽きるか分からない身なんです。あなたがいつも勝っているのはこの目で見ています。どうか、人助けと思って、どうかお願いします!」
するとカズはこともなくこう返した。
「就職すればいいじゃないか」
「それが出来ないからバイトをしているんですよ。バブルが崩壊して企業がほとんど新人を採用しなくなって、僕はその上に新卒じゃないし、もう正社員への道はほぼ閉ざされているんです。」
「そんな事を俺に相談されてもなぁ。俺はハローワークの人間じゃねーぞ」
妙な沈黙が続く。 カズは食べ終わったスパゲティーの皿を隅にどかせ、10円玉を取りだし目の前で回し始めた。
「表か裏どっちに賭ける?」
自分の博才が試されているのだ。サトシは緊張しながら言った。
「表です。表に賭けます」
「だめだ」
「バンッ」と10円玉を押さえながらカズが言った。手を上げると表だった。
「いや、当たり…ましたよ」 サトシが反論するも、カズは知らんぷりだ。
「もう一度だけやってやる。表か裏か」
またカズが回し始める。サトシは今度は頭にピンと浮かんだ裏に決めた。
「裏です!」
「だめだ」
今度は結果も見やしないで10円玉をすくいあげて、ジーンズのポケットに戻した。
「お前さんなんで、裏にしたんだい?」
「いやー頭に浮かんだからなんとなく」
「パチンコで負けているのもそれが原因だよ。ただなんとなく台にすわり、ただなんとなく勝負を止める。突き詰めて考える事なんかしたことがない。図星だろう」
カズが言っている通りである。しかし、さっきのコインの賭けは不可解だ。
なにやら禅問答のようなものなのか、それとも何か重要な問いなのか、サトシにはカズの意図が全く分からない。
「ここの代金は俺が払っとくよ」
コーヒーを飲み終わったカズがテーブルの明細を取りながら言った。サトシはスパゲティーを口の中へとかきこんだ。
カズが店を出た。少し雨が降り始めたようだ。カズが手を広げて雨かどうか確認している。
その後を歩きなから、サトシが訴える。
「お願いします、カズさん。掃除、洗濯何でもしますから!どうか、どうかお願い致します!」
するとカズはくるりと振り返り、あの黒い手帳をサトシの目の前に出して言った。
「収支だ、収支をつけ続けろ。どんなに負けても、負けて負けて負けたおしても収支は正確につけ続けろ。勝つための第一歩だ。」
「はあ。…あっ!は、はいっ!はいっ!」
降り始めた雨も止み、空が明るくなってきた。
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