プラマイゼロ

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 由良アヤカは泣き疲れて眠った。寝顔は穏やかだ。  さまざまなことを聞いて、頭の中が整理できない。  彼女とユウトの関係が危ういなら、揺さぶりをかけることは簡単だ。しかしそれは、こっそり寝取るよりもずるい。  由良アヤカは混乱のさなかにいる。蜘蛛の糸を垂らされたら。藁を投げられたら。つかまずにはいられない。  二人を離すべきかもしれない。彼女が泣かずにすむのであれば。だが、その関係をどうするかは、俺が決められることではない。  助けを求められれば手を差し伸べる。奈落へ堕ちていきそうなら引き止める。  しかし、答えを提示することや導くことは無意味だ。彼女の望みが現状維持なら、誰一人として幸せにならなくても、それが本人にとっての正解なんだ。 『別れさせるんだ! 由良アヤカを自分のものにしろ!』  感情が叫ぶ。  どんな手を使っても願いを実現する。それは決してみっともない姿ではない。  自分に問う。俺は彼女を手に入れるに値する男か?  残念ながらノーだ。  幸せになりたい。自分が犠牲になっても由良アヤカが笑顔なら悔いはない、なんて、悟った境地には至れない。  仮に彼女を得ても、そこはゴールじゃない。先のほうが長いんだ。俺にとって相手が必要であるのと同じぐらい、彼女にとってかけがえのない存在にならなければ。  どう歩めばいいのか分からない。努力しても、はたして目指す人間になれるかどうか。しかし、ゼロとプラマイゼロは同じではないのだ。 * * *  口に柔らかい物が押しつけられた。まぶたを上げると、真ん前に由良アヤカの顔があって、キスされていると知った。  起き抜けだったので驚いて、思わずビクッとする。相手はこちらが目覚めると思わなかったらしく、あわてて身体を起こした。  ここは俺の部屋。カーテンは明るみ、時計は六時半を指している。いつの間にか自分も眠ったらしい。  彼女はしゅんとした。 「ごめんなさい。起きたとき、そばにいてくれたからつい……」  その表情を見て、これも『わがまま』になるのかと内心で嘆息した。  自分の立場上、由良アヤカとユウトが仲睦まじければ、やり切れないはずだった。  でも、違った。二人がうまくいっていないほうが腹が立つなんて、想像もしなかった。ユウトに延々と説教したいぐらいだ。  俺は思考を切り替え、ニッと笑った。 「寝起きを襲われるのは大歓迎」  由良アヤカは顔を赤くして小さくなった。そして言いにくそうに口にする。 「昨日はいろいろ聞いてもらって」  俺たちの関係は、その気になればいつでも切れる。踏み込んだ事情を口にしないのが暗黙の了解だった。これからどうなるのだろう。相手の選択によっては、二度と会ってもらえないかもしれない。  ここは安全圏ではなく、傷つく場所。だが、なにもしないよりすこしだけマシだ。 「誰にも言えなかったんだろ。ずっとがんばってきた。誰一人、お前の生き方を決められるやつなんていない。とどまるのだってパワーがいるんだ。お前、根性あるよ。焦らずに、しっかり見つめ直せばいい」  由良アヤカは俺の言葉に耳を傾け、苦しそうに表情を歪め、やがて涙を流した。ひとつうなずいて顔を両手で覆う。俺はそちらに近づいて抱きしめた。  やがて彼女はポツリとつぶやいた。 「志摩くんが……」 「俺が?」 「甘やかすから、ふにゃふにゃになっちゃう」  俺はふっと笑った。 「キャラクター的にはそっちのほうが合ってる」 「えー? 何気に失礼なこと言ったよね」 「さぁ?」  由良アヤカはこちらに身体を預けた。  彼女がしがらみから解き放たれて顔を上げたとき、どんな表情を浮かべるのだろう。広げる翼は、雄々しく美しいに違いない。  その瞬間、不意にヘソのあたりが空腹を訴えた。  ああ、どこまでもかっこつかない。相手がクスクス笑ったので、まぁいいかと思い直す。彼女が提案してきた。 「昨日ご馳走になったから、朝食は用意していい? 冷蔵庫の中身を借りるけど」 「大して食材は揃ってないぞ」  相手はベッドから下りて、冷蔵庫を確かめた。 「んーと、ごはんとお味噌汁と卵焼きとおひたし。簡単な物だけど構わない?」  彼女の手料理を味わうのは初めてではないが、改めてジーンとした。 「お願いします」  手早く朝食を用意していく背中を眺めながら、こんな幸せがあっていいのかと思った。由良アヤカは俺のものではない。けれど、いまはささいな問題だ。  同棲カップルみたいな空気に、ゆるりと浸った。
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