閑良の歌客

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壬戌之秋七月既望、赤壁江に舟を浮かべ、 ゆくに任せて遊びし時、 清風はおもむろに来たりて水波は興らず~  御馴染みの赤壁歌の一節が今日も道行く人々の耳を捉えます。 「勘当されたというのに、よく平気で唱っていられるなぁ」 農夫の一人が言うと 「名家の若さまだそうよ、でも、いつ聞いてもいい声だねぇ」 農婦が感心したように答えます。  このように、毎朝、半ば呆れ半ば感心しながら“若さま”の唱声を聞きながら仕事に行くのが、この村の人々の昨今の日課になりました。そして、今宵は“若さま”の家に皆で押し掛け、孔明や関羽たちの名場面の演唱を所望することでしょう。 “若さま”こと権士仁〈クォンサイン〉は、もともとこの地の人間ではありませんでした。訳あって妻の実家のあるこの地にやって来たのです。  外から長鼓〈チャンゴ〉の音が聴こえてきました。士仁少年はいても立ってもいられず外へ飛び出しました。隣の家に広大〈クァンデ・旅芸人〉が来たのです。彼は、広大が演唱するパンソリが大好きでした。なかでも三国志を元にした「赤壁歌」がお気に入りでした  彼は、いつからパンソリに惹かれたのか、よく分かりません。ただ物心付いた時から身近に存在していたのです。  最初はとても奇妙な音だと感じました。やがて、それが人の声であることに気が付き、その主を確かめに行きました。その者はどこにでもいそうな中年男で話す声は他の人々と大してかわりがありませんでした。しかし、長鼓が鳴り演唱が始まると一変しました。渋めのその声は耳を放しませんでした。  士仁が学問をはじめる年齢になると、他の士人層の少年たち同様、父親や師に付いて文字を習い始めました。文章が読めるようになると四書五経を始めとする様々な書物に目を通しましたが、彼の心を捉えたのは経書の類ではなく「三国志演義」でした。  この書物に熱中している頃、村に広大がやってきました。士仁はさっそく、彼が演唱するパンソリを聞きに行きました。 「これは三国志演義ではないか?」 久し振りに聴いたパンソリの内容は彼の好きな三国志演義の一場面だったのです。広大は、張飛の勇猛さ、孔明の知略、関羽の義の厚さを、時には力強く、時には淡々と語ります。文字の中の英雄たちの活躍が目の前に浮かんでくるようでした。 「凄い!」  広大の語りに魅了された士仁は、彼らが宿泊場所を訪ねて行きました。そして、自身が感動したことを伝え、パンソリについてあれこれ訊ねるのでした。  広大一行が村に滞在している間、士仁は毎日、パンソリを聴きに行き、その宿泊所を訪ねました。彼らと親しくなった士仁は、パンソリの一節を教えてもらうほどになりました。  十日ほど滞在した広大一行は次の興業場所へと旅立って行きましたが、何と士仁も彼らについて村を出て行ってしまったのでした。  士仁の家族は大慌てで息子を探し始めましたが、広大一行が何処に行くか知らないのでなかなか探し出せませんでした。  一方、広大たちと行動を共にした士仁は、手伝いをする傍ら広大から「赤壁歌」を習いました。三国志演義の一場面である「赤壁の戦い」を描いたパンソリの演目です。 「天下の大勢、分かれて久しければ必ず合し、合して久しければ必ず分かつ…」 「赤壁歌」全てを伝授された士仁が広大一行の前で披露すると 「たいしたものです」 と皆一様に褒めてくれました。それはけっしてお世辞でも何でもありませんでした。  こうしたある日、士仁は遂に家の者たちに発見されて泣く泣く帰宅しました。  家に着くと父親を始めとする親族たちが「河原乞食の真似をしてみっともない」と責めたて、“二度とパンソリに接しない”と誓わせようとしましたが、士仁は頑として応じませんでした。  部屋に軟禁された士仁は「赤壁歌」の練習を始めました。父親たちは何度も注意しましたが辞めなかったので遂に「パンソリをやめなければ勘当する」と言い渡されました。  士仁はそれでも構わないと答えたので家から追い出されてしまいました。 「さて、これからどうすべきか」 と思案していたところ、共に追い出された士仁の妻が言いました。 「私の実家に行きましょう」  こうして、この村に来た士仁ですが、日々パンソリを演唱しながら貧しいながらも気楽に過ごしていました。そして、名人と言われるパンソリ演者が村に来ると訪ねて行っては教えを請いました。  こうして精進を重ねていくうちに、士仁の演唱は評判となり、遠くから彼のパンソリを聞きに来る人まで現われました。  その評判は都にまで届き、士仁は王の前で演唱するほどになりました。  こうして士仁こと権三得の名はパンソリ史上欠くことの出来ないものとなり、後日、パンソリ八大名唱の一人に上げられるようになりました。
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