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呑会
カラカラ、と少し立て付けの悪いアルミサッシを引いて身体を半分外に乗り出すと、冷やっこい夜気が鼻先をくすぐった。
すん、と鼻を鳴らす。
雨が近いのだろうか。見上げた空はくすんだ紫で、雲が厚く垂れ込めているのが分かる。湿り気を帯びた空気が吸い込んだ肺に重く溜まるようだった。
転がっているサンダルを足癖で探り、後ろ手でサッシ戸を閉める。
野晒しで硬くなったゴム底を一歩、二歩、と引き摺って、独り暮らしの洗濯物を干すので手一杯になるベランダの、バリバリに塗料が浮いた手摺りにもたれた。
眼下に広がるのは銀砂煌めく絶景──とは程遠い、やたらと艶やかな彩がどぎつく光を滲ませ、時折歓声とも嬌声ともつかない賑わいを見せる、所謂ドヤ街のような眺めだった。
夜が深まっても、繁華街はますます賑わう一方で、全く眠りにつく気配がない。
元気だねえ、と手に持ったグラスを口元に寄せる。眼下の街も、お隣も。
夜風に吹かれながらちびちびと唇を湿らせていると、右横の部屋の窓が開く音が聞こえてそちらを向く。
ひょろりとしたシルエットがベランダに出て来た。半分以上身体を出した時点で、こちらに気付いたのかぎくりと動きを止める。
気まずい沈黙。互いに会釈するでもなく見つめ合う。きっと引っ込むんだろうな、と思ったのに反して相手はゆらゆらとベランダに出て来て同じように手摺りにもたれた。
「……ども」
「あ、はい」
コミュ障かよ、どっちも。
そうツッコミを入れたくなるようなやり取りに、うんざりと目線を前に逃がす。
さっさとグラスを空にして部屋に戻ろう、と一口飲んだ所で、意外にも隣から追加の声が上がった。
「あの、さっきはすみませんでした」
「さっき?」
聞き返したのは別に意地の悪い気持ちからではなく、本当に謝られる理由に思い当たる節がなかったからだ。
だけど相手は萎縮したように肩を竦める。
「結構、大騒ぎをしてしまったので。ご迷惑だったんじゃないかな、と」
「ああ」
確かに、賑やかだった。
「別に、気にしてません。それに騒いでいたのは主にカノジョさんでしょう?ずいぶんアグレッシブな人ですね」
壁を通して聞こえる甲高い声と、プラス割れ物を叩き付けるどんがらガッシャン。つい先程まであんまり洒落にならない大騒ぎが隣室で繰り広げられていた。
隣人は申し訳なさそうに頭を掻く。
「カノジョじゃあないんですが……まあ、あれだけ暴れたので、しばらくここに来ないとは思います」
「ふうん。切れた訳じゃないんだ」
おっと。つい砕けた口調になってしまった。
「……ないんですね?」と手遅れながらも言い直すと、微かに苦笑する気配が感じられた。笑われている。
「喋りやすいのなら、敬語なくていいですよ」
「ってもなぁー……ああやべ、もう素全開だ。悪いけどタメ口に切り替えるわ。そっちも喋りやすい方にして」
「僕は、敬語ありで」
「ん、おっけ」
バイトやサークルを抜きにすると、同じくらいの年回りの奴には基本敬語は使わない。お前のメンタルつえー、だの生粋の陽キャだのとからかわれるが、面倒臭いだけだ。逆に使い分けてるの、偉くない?
それに自分のキャラクターは少しばかり踏み込む事を許されている。
「騒ぎって言ってたけどさ。今までも大分お楽しみだったでしょ?」
こんな風に。
ここの壁は薄い、生活音なんか上下左右に筒抜けのボロアパートで、夜の営みの様子が聞こえないわけがない。
ベッドの軋み、肌のぶつかる音、甘やかな声。
そんなものを幾度となく聞かされてる身からすればさっきの大騒ぎも台風のようなものだと思って受け流している。
「さびしくなったら俺が慰めてやろっか?」
そう言う意味合いで茶化して気にしていない雰囲気を作り出そうとしたんだけど。
「……」
ちょっと、失敗したみたい。
みるみるうちに隣人さんは真っ赤になって、口元を手で隠した。
「酔いすぎ、ですよ」
そう言い捨て、逃げるように部屋へと入ってしまった。
「あー……」
ちょいと下世話だったかしらん。
随分とまあ、初心な反応だったけど。
手に持ったグラスは、すっかり温くなっている。溜め息を吐いて、一気にごくごくと飲み干した。
鼻に抜けるカルキ臭にまず、と声が漏れた。
「……酔って、ねーんだけど」
何故か火照っている頬を冷ますように、ぽたぽたと水滴が降ってくる。
あっという間に本降りになった天気に背を向けて、サッシを横に引いた。
多分、嵐になるんだろうな。
しばらく、耳を塞がなくて良くなりそうだ。
隣の音が聞こえなくて済むから。
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