入学式

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 四百を超える新入生の中で涼がその名を見つけたことに深い意味はない。単に、鬼島統が芸術選択科目で音楽を選んでいたからだ。今年の普通科一年の音楽を担当するのは涼だ。だから知っていた。それだけのこと。決して鬼島という苗字に気を取られたわけではない。 「じゃあ会いに行け。こんなところで油を売るな」 「そのつもりだったんだがな」  天下は薄く微笑んだ。困ったように肩を竦める。 「お袋も来てた」  その一言で察するには十分だった。鬼島家の複雑な家庭事情。自分のことを覚えていない母親の前に顔を出すのはさぞかし辛いことだろう。間に挟まれることになるであろう弟の心情も察して、天下は身を引いたのだ。  家庭に関して天下が異様に物わかりが良いのも、相変わらずだった。だからだろう、彼を突き放すことができないのは。  憐憫でも同情でもない。涼の中で天下にある種の同族意識が芽生えていた。後ろめたいことなんて自分にはないのに、家族に対して二歩も三歩も引いてしまう。複雑な家庭事情を抱えているのは涼も同じだった。  だからこそ、今の天下を見ているとたまらなくなる。一生、こんな生き方を通すつもりなのか。やめろ。碌なものじゃない。人生の先輩として忠告してやりたかった。しかし、身を引く以外にどうすれば良いのかは、涼にもわからなかった。自分のことでさえわからないのだ。天下に進言などできるはずもなかった。 「なあ先生、今度の土曜は暇か?」  沈んだ空気を払拭するつもりなのだろう。天下は明るく言った。 「先生のい」 「君は新学期早々私を懲戒免職にしたいのか」 「バレやしねえって」 「バレるバレないの問題じゃない。男子生徒を自宅に上げた時点で教師失格だ」  変なことに対して諦めが悪いのも、相変わらずと言えば相変わらずだった。  不満顔の天下はさておき、涼には仕事が山のようにある。順調に進んでいることをひたすらに願った。
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