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第一章 出会わなくても良いですか? 1 嗚呼、擦れ違い
大学生のように見える醤油顔のイケメン青年が自分の部屋があるアパートを出、道を歩く。気持ちの良い朝だ。新緑の季節、川沿いの道をスタスタと歩く。
が……。
ふと、何かを思い出したように、青年が背負ったリュックを手前に持ち替える。中を確認し、ハッとする。忘れ物らしい。それを取りに、青年がアパートへと引き返す。最初は普通に歩いている。が、次第に足早になり、やがて走り出す。フォームが綺麗だ。
丁度同じ頃、女子高校生が自宅の二階建一軒家の玄関を出る。行儀悪く、口に食パンを咥えている。現実には、まず見かけない光景だが、画になっている。家の中から、『早くしないと遅れるわよ』という母親の声が聞こえる。それを聞き捨てるように黒髪ロングの女子高生が道を歩み始める。良く見れば、割と可愛い。
彼女は初め、ゆっくりと歩く。が、時計を見、考えを変える。少し歩速を速めたのだ。それから不意に、いつも乗る電車に間に合わない、と思い至ったのか足早になり、やがて全速力で走り始める。
彼女が走り始めた駅への道は、青年が自宅アパートに戻る川沿いの道と交差する。二人の走る速度がそのままならば、あと十五秒ほどで出遭うだろう。その決定的瞬間があと十秒、五秒後と迫り、遂に一秒前……。
スマートフォンが鳴り、青年が歩みを止める。青年の視線はスマートフォンに向いているので、当然、女子高生には気づかない。
その瞬間、青年の目の前を脱兎の勢いで女子高生が走り過ぎる。
スマートフォンを掛けて来た大学の友人に二言三言言葉を投げ、青年が通話を終え、前を向く。
女子高生の後ろ姿は余りに遠い。
「はい、カット!」
演出の牧村俊(まきむら。しゅん)が美声を放つ。彼はRBSテレビ、ドラマ部の演出家だ。いつもではないが脚本も書く、報道よりはドラマが好きな三十歳。
「では、確認作業に入ろうぁ」
牧村が指示を出し、一部のスタッフがロケ車に戻り、撮影したカットを確認する。映画をフィルムで撮っていた時代には考えられない光景だ。牧村は父が映画監督(ただし売れない)で、子供の頃に良くそんな話を聞かされている。そのときには、まさか自分がテレビドラマの演出をするようになる、とは思ってもみない。
「出会わない主役の二人か。斬新だね」
撮影初日(クランクイン)なので、プロデューサーの小粂定敏(おくめ・さだはる)も現場にいる。四角い顔の四十六歳。
「面白いよな」
「いや、これもどこかで見たパターンですよ」
小粂の言葉に撮影助手の山浦幸助(やまうら・こうすけ)が茶々を入れる。中肉中背の二十八歳。山浦の言葉には、もちろん微塵の嫌味もない。小粂の発言に対する単なる条件反射みたいなものだ。
「それを言っちゃお仕舞ですよ」
スクリプター(記録係)の荻野原寿実(おぎのはら・ことみ)が言葉を挟む。これでもかというショートヘアーの二十六歳。もちろん、彼女の発言にも悪意はない。どちらかと言えば、普段は現場に顔を出さない脚本家(シナリオライター)の藤本桜(ふじもと・さくら)に気を遣ったようだ。
寿実は桜と同じ歳だ。それぞれが忙しい職業なので一緒に遊ぶ機会は少ない。が、仲は良い方だろう。
今回、現場に桜を呼んだのも寿実だ。
「伸さんの腕は相変わらず確かだね」
牧村がメインカメラマン、朝倉伸二郎(あさくら・しんじろう)の腕前を誉める。渋い痩せぎすの五十六歳。
「こういうと嫌がるかもしれないけど、俊ちゃんのタッチはお父さんと似ているから撮り易いんだ」
朝倉は牧村俊の父、邦弘(くにひろ)のすべての映画でメインカメラマンを勤めている。俊のことも子供の頃から知っている。
「対象を覗き込んだり、あるいは動きと反対方向にカメラを動かそうとするような変わった演出は監督の意図を汲むまでが大変だけどね」
「ウチの親父だって、撮り方に癖がありますよ」
「だけど、自然な描写部分をちゃんと入れる。それで観客は息が吐ける」
「息ができないノンストップの演出もありますけどね」
「ラブコメでそれをやったって受けないよ」
「まあ、確かに……」
無駄話をしているようでも牧村たちドラマ制作陣は手を抜かない。着々と仕事をこなしている。当然のことだがプロの集団なのだ。
「ええと、撮り直しがないようならば、次の現場に向かいましょう」
進行係(スケジューラー)の根岸佳苗(ねぎし・かなえ)が牧村の顔色を見、判断を下す。黙っていればチャーミングな三十六歳。が、その声は低く、迫力がある。確実に現場を動かのだ。
が、そんな有能スケジューラーでも荷が重い場合はアシスタントプロデューサー(AP)が登場する。牧村組のAP、琢磨秀喜(たくま・ひでき)は打たれ強そうな二十七歳。ドラマ作りで最も忙しい役を引き受ける。
「今日中に、あと四回も擦れ違いシーンを撮るのですからね」
佳苗が牧村に指摘し、
「違いないね」
と撮影助手の山浦が同意する。
もしかすると年上の佳苗に懸想しているのかもしれない。
「最初の一回だったら良くあるパターンかもしれませんけど、一話分丸々擦れ違いなんて斬新ですよ」
一呼吸置き、
「藤本先生は天才ですね」
心から桜の目の付け所に感心したように山浦が言うものだから、
「止してくださいよ。プレッシャーです」
と困ったように桜が答える。
「まだ先の回は完全に決まっていませんし、オンエアを見た役者さんのファンが怒るようなシーンがあったら、全部変わります」
「テレビの脚本家は、そういうところが大変だからな」
幾つかの修羅場を、その目で見てきた牧村が桜を労う。
そんな牧村のさりげない優しさに桜の目の形がハート型に変わる。数年前から、桜は牧村を好いているのだ。本人に告るなんて、とんでもないが、桜の気持ちは舞い上がる一方だ。
「今撮っているドラマの初回は東京のプチ観光名所巡りだから、おれたちに出来る限り、綺麗に撮ろうや」
ついで牧村は、その場にいたスタッフ全員に声をかけ、指揮を高める。桜には、その姿も格好良くて堪らない。
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