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第二章『誰かを好きになる理由について』
塾からの帰り道、時刻は午後十時を回った頃、僕はコンビニの前で自転車を止めた。何か甘いものが食べたかった。スイーツの棚の前で、しばらく悩んだ末に僕は大きめサイズのプリンを手に取る。レジで支払いを済まして自動ドアを通って店の外へと出た時だった。
「だあらぁああ!」
一瞬で肌があわ立つような叫び声と、目の前を全開のスピードで通り過ぎていく金バット。つまり金属少女が現れた。
今夜も彼女はきっと、僕とは完全に別な世界を生きている。コンビニの駐車場で金属バットを振り回す彼女の姿を横目に自分の自転車のところまで移動する。自転車にまたがりペダルに足を置いた。このペダルを踏みこんで走り出してしまえばいい。そうすれば金属少女と、もうこれ以上関わらずにすむ。そう頭では分かってるのに、ペダルを踏みこむタイミングを何故かうまく見つけることが出来ない。そんな曖昧であやふやな時間を僕が過ごしていたら、突然、金属バットを振り回していた彼女の動きが止まった。
彼女の手からするりと金属バットが滑り落ち、駐車場のアスファルトの上で乾いた衝突音を立て転がっていく。彼女は自分の胸に強く手を当てる。そして次の瞬間、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
彼女に一体、何が起こったのだろう。僕はとっさに自転車から降りて彼女に駆けより、声をかけた。
「あの大丈夫ですか」
しかし彼女の方は胸に手を当て、うずくまった姿勢で黙り込んだままだ。
今、僕は彼女に「大丈夫ですか」と声をかけたが、少し振り返って考えてみれば、叫びながら金属バットを振り回してる時点で、そもそも彼女は大丈夫じゃなかったかもしれない。僕の彼女への声かけは果たして適切だっただろうか──そんな空回りで無意味な思考パターンが頭の中をループする、そして彼女は沈黙と停止を続けたまま。僕は、次に自分がどういう行動を選択すればいいのか分からなかった。だけど僕と彼女の間に横たわる空白の時間は長くは続かなかった。
「よっしゃー!」
突然、彼女は喜びに満ちた叫び声で沈黙の見えないガラスの壁をたたき割ると同時に立ち上がり、その両手をコンビニの駐車場の上に広がる夜空に向かって突き上げた。彼女の行動はどれも僕にとってまるで予想もできないものばかりだ。
けれど直後、彼女は「うぅっ」って小さく短い声を漏らし、再び胸に手を当てうずくまる。
「あの大丈夫ですか」
僕は、もう一度さっきと同じ言葉を彼女に問いかける。一体何がどう大丈夫なのかという問題はとりあえず置いておくことにした。
今度は僕の言葉が届いたのか、彼女が顔を上げた。その時、初めてまともに目があった。彼女の眼差しは深い夜の海を思わせ、懐かしさを孕んだ慎ましい棘として僕の心を刺した。
「あの、何ていうか、もう大丈夫です」
彼女は一つずつ言葉を確かめるように答えた。そして足元に転がっていた金属バットを拾いあげる。そしてそれを両手で胸の辺りに抱えると「すいません。ご心配、おかけしました」そう言って頭を下げた。
「いや。別に僕はいいけど、その……」
彼女は僕の言葉を最後まで聞かずにくるりと体の向きを変え、背を向けて、歩きだす。遠ざかっていこうとする彼女の背中に向かって「本当に大丈夫なんですか」と自分でも不意の強さで言葉を投げつけていた。彼女は立ち止まり、振り返る。
「本当に大丈夫です」
「だけど、その何ていうか。大丈夫にも、この場合色々とあって……」相手に本当に聞きたいことは、決まっていつも聞きにくいことなのがこの世界の法則で、だから僕は言葉に詰まる。
「分かってます。いきなり大きな声だして、金属バットふり回すなんて全然、大丈夫じゃないってこと、私だって……」
彼女の声は、悔しさと恥ずかしさの感情の中に埋もれるように消えていった。僕は聞き返す。
「だったら、どうして?」
「理由がるから、私にはどうしても、そうしなくちゃいけない理由が……」
「それって一体、どんな理由?」
「……」
僕の質問に答える代わりに視線をどこか遠くに投げた後で、彼女は僕を見た。
「あの、すいません。今日は、私なんかのこと心配して、声かけてくれて、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げると、彼女はもう一度、背中を向け歩き出す。一歩ずつ離れる度に、少しずつ小さくなっていく、彼女の背中を、僕はその場所から動かずに見つめていた。
追いかけることをしなかったのは、別にそうしたくなかったからじゃなく、ただそうしなくちゃいけない理由が見つからなかったからだ。
やがて彼女は角を曲がり、その後ろ姿も見えなくなった。街灯に照らされた誰もいない歩道だけが後に残ってる。四月の夜のコンビニの駐車場で、ジェリーフィッシュによく似た感情がふわふわと僕の中を漂う。煮え切らないのはいつものことで、ルーティーンみたくこぼれるため息の後で、僕は自転車にまたがる。そして家に向かってゆっくりとペダルを漕ぎだしていく。
四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。このチャイムは、授業の終わりよりも、昼休みの始まりとしての意味あいの方が強めで、だから一日のうちに教室で聞くチャイムの中で一番好きかもしれない。
「起立、礼」
「ありがとうございました」
クラス委員の号令と挨拶が終わって席に着いた時だった。
「あのさ、ちょっと話があるんだけど、いい?」
声がした左の方を振り向くと、隣の席に座る新山が僕を見ていた。
「いいけど、何?」僕の声は上すべりして、戸惑いは隠せない。
「じゃあ。一緒に来てよ」
新山はそう言うと、僕の返事なんて待たずにさっさと歩きだし、教室を出ていく。僕はとりあえず新山の後ろを追いかけた。廊下を歩きながら、新山の後ろ姿に声をかける。
「どこまでいくの?」
「体育館の裏」
そっけなく答える新山は、立ち止まりも、振り返りもしない。でも僕の心は、その言葉に揺れた。体育館の裏──それはこの学校では特別なパワーワードだった。この学校で異性に告白する生徒たちは、何故か体育館の裏で告白するのが代々の伝統になっていた。
思春期のただなかに位置する生徒たちが、何故か学校と言う体制側が望む伝統には鼻をつまみがちなくせに、そう非公式で体制側が推奨しない伝統や慣習に関しては積極的に守り、参加しがちだったりするのは、決して不可解なことじゃない。
そして僕の一年ちょっとの高校生活で言えば、体育館の裏に誰かに呼び出されたこと、逆に誰かを呼び出したこと、そのどちらの経験もなかった──それなのにだ。僕は今、クラスでも一番可愛い女子(僕の個人的な印象ではある)と一緒に体育館の裏に向かっている。この状況は僕にとって確実に事件だ。
そして体育館の裏まで来たところで先を歩いていた新山が足を止め、振りかえり、いきなり僕に言った。
「ねえ、永瀬、私と付き合おうよ」
「えぇっ?」
タイミング的にはノーモーション、僕の気持ちは完全に準備不足。だから言葉につまって、返事をかえすことが出来ない。「イヤなの?」新山が僕に聞く。
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ。決定ってことでよろしく」
「よろしくって……」
「だって永瀬、どうせ今、カノジョいないでしょ」
「いないけど」
「『けど』何? 他にどうしても好きな人がいるとか?」
「好きな人……」
「いるの?」
「イヤ、別にいないけど」
「だったら問題なくない?」
「あの、何で僕なの? 新山と僕じゃ、クラスでも全然、ポジションが違うって言うか、今だって席は隣だけどあまりしゃべったこともないし」
「ねえ、ハチ公って知ってる?」
「いきなり何? ハチ公って、渋谷の?」
「そう。忠犬ハチ公」
「ゴメン。ちょっと話が見えない」
「私の場合さ『忠犬』って書いて『カレシ』って読むんだ。それで永瀬なら、きっと私のいい忠犬になってくれる気がするんだよね」
新山は、そう言って僕に微笑んだ。天使のようだと言えなくもない屈託のなさで、四月の真昼の光に照らされて、彼女は僕の前に立っていた。
つまりは、これが僕の人生で初めてのカノジョが出来た記念すべき瞬間だった。もちろん新山にとっては、僕はきっと何人目か忠犬と書いてカレシ読む存在で、だから別にたいして記念すべき瞬間でもなかっただろうけど。
その夜、月は後二、三日で満月になるくらいの大きさで、すっかり春めいた風が無邪気に吹き流れた。
今日は帰り道に金属少女は現れなかったし、父親も相変らず家に帰ってこなかった。僕はベッドの中でなかなか寝付けなくて、無意味に寝返りをくりかえした。
「新山と付き合ってるって噂、マジなの?」
三時間目の体育が始まる前のグランドで、クラスメイトの藤川が僕に聞いてきた。藤川は背が高くてサッカー部で確かゴールキーパーだ。昼休みの体育館の裏、新山の奇妙な告白から今日で、一週間がたとうとしていた。
「あぁ、まあ……」僕は曖昧に肯定する。
「うわっ、マジでマジなのか!」
藤川の顔が驚愕指数100%の表情に変わった。それは当然のリアクション、確かに僕と新山じゃ普通に考えて釣り合わない、付き合う理由が見つからない。
「あ~ぁ。新山が青木と別れたって聞いたから、ぶっちゃけオレもワンチャンとか思ってたのに。永瀬、おまえに先越されるなんて、現実はオレのイマジネーションを完全に越えてる」
藤川は、まるでアディショナルタイムに逆転ゴールを決められたみたいなテンションだ。
「恥ずかしいから、あんまみんなには言わないでよ」
「うわ、完全に上から目線の発言じゃん。って、オレが言わなくても、もうみんな知ってますから。おまえ、それ嫌味? オレにケンカ売ってる?」
「そんなつもりで言ったんじゃない。ゴメン」
「まあ、いいけどさ、それよりどうやったの?」
「どうって?」
「いや、永瀬と新山って、釣り合わないっていうか、あんま付き合うってイメージ沸かないじゃん。だから何か、必殺技って言うか特殊な恋愛テクニックみたいのあるんじゃないかって思って」
「いや。別にそんなんのないよ」
「じゃあ。どうやったの?」
「イヤ。別にただ普通にしてただけ」
「うわ。それ、一番ムカつくヤツじゃん」
藤川が大げさに悔しがった時、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。その日の体育はソフトボールで、特に印象に残るようなことのない普通の体育の授業だった。強いて印象に残ったことを上げるとすれば、僕が打席に立った時、センターの守備についていた藤川が「ピッチャー、当てていいぞ」と大きな声で叫んだことぐらいだ。僕が実際にデッドボールを当てられることはなかったけれど。
藤川には僕が今、人生において何の問題もない幸せなヤツに見えるのだろう。しかし藤川が想像するような甘い恋愛関係は僕と新山の間には存在していない。僕と新山の関係はカレシとカノジョじゃなく、忠犬と飼い主だ。分かりやすく言えばヤンキーとパシリの関係だ。焼きそばパンこそ買いにいかされてはいないけど、カフェオレなら自販機まで何度も買いに行かされてる。それは僕が夢みていた、あるいは妄想していた青春の恋の姿とはずいぶんと離れたものだ。
とはいえ、こんなことになるなら、あの時の新山の私のカレシ(忠犬)にならない? と言う誘いを断ればよかったと、僕が後悔しているわけじゃない。それまでの恋愛の匂いのしなかった毎日に、何もなかった日常に比べればって、つまりはそういうことだ。もしも僕が千回、タイムスリップであの瞬間に戻ったしても、きっと千回とも同じ決断をくだすことだろう。
「ねえ、何か、おもしろい話してよ」
新山が僕に言う。放課後、帰り道の途中、駅前のカフェ、付き合いだしたばかりの高校生の恋人たち、その設定だけをここで並べるのなら、悪くない、ってか甘酸っぱい青春の一ページですらある。
でもさ、新山「ねえ、何か、おもしろい話してよ」って、話の振り方はどうかと思う。後で僕なりに色々考えてみたけど、やっぱり話のふり方として最低だよ。そんな風に文字通りの話の矛先──尖って心にグサってささるヤツ──を向けられた僕が結局、しょうもない話しか出来なくて、新山に「クソつまんない」って当たりまえのように言われて、僕は曖昧に笑って「ゴメン」なんてあやまちゃって、それで新山はすっかりシラケて、僕はしっかり痛い目を見てって、結果になったのはほとんど不可抗力だ、僕の責任じゃない。これは言い訳じゃない。ただ純粋に新山の話の振り方にそもそもの無理があるからなんだよって、僕は心の中で激しく思った。だけど思っただけ、言葉にはしてない。だって、しがない一匹の忠犬である僕が新山に対して批判的だったり反抗的だったりする発言をすることは許されないからだ。
僕は一体、何をしているんだろうか、こんなはずじゃなかったって、今まで一億回は自分に言った言葉を、今日もまた繰り返して終わり、そのまま何も変わらない明日がやって来るだけだ。
「あのさ、前から一度、新山に聞きたいことあるんだけど」
「何? めんどくさいからもったいぶらずに早く言ってよ」新山は、アイス・カフェオレが入ったグラスがかいた汗をけだるそうに指先ではじく。
「僕と一緒にいて、楽しい?」
「楽しくない」これ以上ないってくらいの即答。
「だろうね。でも、だったら何で、僕なんかと?」
「そうだね。ホント、何で私は永瀬なんかと一緒にいるんだろう」新山は本当におかしそうに笑った。それは小さな子どもみたいにとても無防備で隙だらけで、だから、何の理由もなく守らくちゃいけないものだって気持ちになってしまう。
人を好きになるってことが一体、どういうことか、今の僕にははっきりと分からない。だけど今、僕は新山のこと、それでも好きなのだと思う。もちろん見た目がカワイイからってのは否定できない理由としてあるけど、それだけじゃない。うまく言えないけど新山を見てると、いつもスゲー人間っぽいなって思うんだ。もちろん新山は妖怪でもなければ、アンドロイドでもない、ごく普通の人間だから、当たり前の話なんだけどね。
カフェを出たところで新山が僕に言う。
「ねえ、永瀬。明日までに、私がゲラゲラ笑えるような何か面白い話を用意しておいてよ」
「いや。そんな無理……」
「じゃあね」
新山は当たり前のように僕の返事を待たずに一方的にサヨナラを言うと、駅に向かって歩きだしていく。こっちを振りかえる可能性なんて1パーセントも予感させない彼女の後ろ姿を見送る。
僕はため息を一つ、そして歩きだす、これから塾に行かなくちゃ。
「ただいま」
我ながら、これ以上ない平坦で感情のない声の色だ。形式的な帰宅の挨拶を、僕は業務的に口にしながら無造作に靴を脱ぐ。
そしてリビングのドアを開けると、ソファーに数日ぶりに見る父親の姿を見つけた。
「おかえり」距離をつめようと笑顔を浮かべる父さんに、逆に距離を感じてしまう。
「ご飯は?」キッチンの方から母さんの声が聞こえる。
「あぁ、大丈夫。塾、行くまえに食べたから」
そう言ってリビングを出て行こうとする僕に、母親が5%くらい咎める感情の混ざった口調で言う。
「ちょっと待って、何食べたの?」
「ハンバーガー」半ば背を向けながら僕は答え、二階の自分の部屋に続く階段を上っていった。
ウソだった。ハンバーガーなんて食べてなかった。
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