【31】

1/1
691人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ

【31】

 その男はただ、フラフラと歩いてやって来た。  まるで生きた人間が散歩でもしているかのような気負いのなさで、微笑みを浮かべて現れた。彼が人でないと分かるのは、人体は不自然に発光したりしないという常識に頼るほかなく、見ている分には僕たちとなんら変わらない生々しい存在感を携えていた。  三神さんが、自分の両手をまじまじと見つめた。結界を解いたつもりはない。だが、今彼は霊力を全く放出出来ていない、そんな様子に見えた。  男は襖を通り抜けて三神さんの側を通過すると、部屋の中央付近で立ち止まった。  水中さんが声にならない悲鳴を上げてバタバタと部屋の隅に逃げ惑うも、男はその様子には目もくれず、下の方を見ながら顔を左右に振っている。それは不気味で不可解な行動ではあったが、彼の優しい微笑みからは、今まさに誰かを憑り殺さんと呪いを放つ素振りなど微塵にも感じられなかった。  ほとんど目の前に立っているその男の様子をまじまじと見つめる秋月姉妹にも、あるのは恐怖よりも大きな混乱だった。両目をどれほど見開いて見ても、そこに立っている男の正体が分からないのだ。  幽霊なのか。  人なのか。  井戸の上で即身仏と化したカナメという、その男自身なのか。  あるいは彼の放った、何某かの攻撃手段なのか。  予想出来る範疇を軽々飛び越えて起きた現象に、まるで見当がつかなかった。秋月さんは右腕でめいちゃんを自分の背後に回すも、やはりそれは無意識の条件反射でしかなく、彼女の顔に浮かんでいるのは汗と、無だった。  男は腰を曲げると、まるで地面に咲き誇る花々を鑑賞するがごとく、視線を左右に振って周辺を見渡した。そして彼の右手が動いたかと思うと、慣れた手つきで自分の顎を指で撫でた。  ――― 三神さんだ……。   僕はまたしてもそう思い、無意識に視線を投げかけていた。すると三神さんは目を細め、突如現れた男を見据えながらこう言った。 「ワシも、こんなに側で、動いている姿を見るのは初めてだよ、当然だがね」 「では、やはり?」 「ああ、間違いなかろうな。永遠なる天正堂階位・第一にして開祖、アマハラ……もとい、大神鹿目(おおがみ かなめ)様だ」  鹿目は腰に手を当て、顎先をもう片方の手で撫でながらウンウンと頷き、僕たちには見えない何かを愛でて楽しんでいる。彼の生きた時代と僕たちのいる時代では、おそらく数百年という時間の隔たりがある。今目の前に鹿目の姿はあっても、彼の意識までここにあるわけではないのだ。  そこへ、 「あぁぁ」  と、かぼそい声を発しながら玉宮さんが立ち上がった。  玉宮さんにとっては宿命の怨敵である。つい先程まで心の臓を握られ、秋月さんが寄り添い抵抗し続けてくれなければ殺されていたかもしれない相手である。しかし玉宮さんの両目からは涙が溢れ、まるで恋焦がれた恋人に再会したかのような表情で、両手を前に差し出していた。 「許してください」  と、玉宮さんの口から出た言葉は、まさかの謝罪の念であった。  むろん、届くことはない。  大神鹿目は死んだのだ。  それでも、 「許してください、鹿目様」  涙ながらに、玉宮さんはそう繰り返した。  紅おこと、玉宮小夜姉妹にとって、大神鹿目という男がどのような存在であったのか。それはおそらく持てる語彙力を総動員してどれだけ語数を費やそうとも、決して他人には理解できないものだと思う。  婆ちゃんは決してカナメ石に触れることができない、と水中さんは言った。それは畏れ多いという理由からではなく、物理的に無理だったそうである。分かりやすく言えばバリアのようなものがカナメ石の周囲に張られており、紅さんも玉宮さんも自らの意志に反して絶対に触れられなかったという。あるいは彼女達だけに発動するバリアであることを考慮すれば、やはり内面的な心の問題だったのかもしれない。 「許してください」  涙ながらに繰り返す玉宮小夜さんの姿に、この時の僕は意外なものを見た気がした。もっと、怒りに満ち満ちた戦いの構図を想像していたからだ。僕の目には、紅さんや玉宮さんの罪など映らない。先祖が引き起こした呪術戦争ともいうべき対峙の相関図でいえば、彼女たちはほとんど無関係な人間の筈なのだ。  それでもなお、玉宮さんは泣いた。そこには時代と、時間と、命と、人の心の重さを感じることが出来た。カナメ石の保全に他者の協力を必要とした事実こそが、これまで水中さんや津宮さんといった村人たちの人生を巻き込んできた原因である。もちろんそれだけではないが、これらの一面もまたある種の呪いと言って良いのだろう。  それでも、少なくとも玉宮さんにはカナメ石に対する敵意や怨念ではなく、畏怖と慚愧の念があったのだ。例えそれが自ら犯した過ちではないにしても、紅、玉宮姉妹の先祖に端を発するカナメ石の呪いは、己に流れる血を恥じる程に彼女らを責め立てていた。  何百年経とうと決して許してはもらえぬ。カナメ石の呪いが続く限り、自分達一族は未来永劫許しを請い続けねばならないのだ……そんな風に。 「許してください。許してください」  一方大神鹿目は、目線を自分と同じ高さに上げて、誰かと話すような身振り手振りで笑っていた。むろん声など聞こえない。話をする相手などここにはいない。蒼く発光するその体は、現実そのものではない。それでも、鹿目の表情はいきいきとして、時にお腹に手を添え、体を後ろへ反らせて豪快に笑っていた。相手を指さし、手を叩き、身をくねらせて笑うのだ。そして優しく微笑み、頷き、両手を開き、誰かを強く抱きしめてみせる。  僕は不思議な光景を前にいつの間にか泣いていた。しばらくは自分の目が涙に濡れていることにも気が付かなかった。かつて目の前の男はこのように笑い、このように誰かを愛し、このように毎日を生きていたのだ。鹿目自身が教えてくれる生前の記憶というものは、あまりにも普遍的で、あまりにもささやかだった。誰もが鹿目の表情と仕草に目を奪われていた。  ――― この男の命が、奪われたのだな。  鹿目の表情が明るく朗らかであればあるほど、その先を知っている僕らの胸は痛んだ。  そして、ついにその瞬間が訪れた。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!