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思い出すたびに気が滅入る。古典の先生の声がさらに遠く聞こえた。窓の外で紅く色づき始めた桜の葉なんて、少しも綺麗だとは思えなかった。
美姫の姿がないこと以外、高校での風景は何一つ変わっていない。
通夜から五日も経てば校内の雰囲気はすっかりもとどおりで、美姫が亡くなったばかりの頃の辛気くささは、今じゃこれっぽっちも残っていなかった。一年生の頃と違って一つ隣のクラスへと分かれた美姫の机に花が供えられているのは見かけたけれど、だからといって美姫のクラスの日常が変に歪むことはなかったようだ。
一つ動きがあったとするなら、百瀬龍輝の件だろうか。
美姫が二年一組、俺が二組、百瀬は三組の生徒だ。三組の友人の話だと、美姫の通夜で見かけて以来、百瀬は一度も学校へ来ていないらしい。
百瀬はもともとあまり熱心に通学している生徒じゃなかった。おそらく必要な出席日数をきちんと計算して、最低限の授業にしか出ないようにしていたのだろう。定期試験の成績も上位に名前があったことはないはずだ。具体的にどの程度の学力なのかは知らないけれど、順位は下から数えたほうが早そうだというのが俺の勝手な印象だった。
警察が百瀬のことを疑っているという話も耳にした。恋人だった人物に目をつけるのは当然のことだろう。問題なのは、百瀬が殺人犯だという具体的な根拠が見つかるかどうか。今回こそはじめの一歩を間違えないでくれと願うばかりだ。
百瀬と言えば、もう一つ。
通夜の日に俺たちの間で持ち上がった、美姫が三股をかけていたという話。俺たちの通う高校でも、噂の火種があちこちで煙を上げ始めていた。
美姫が百瀬以外の男と一緒にいるところを目撃した――主に女子たちによって展開されるそんな噂話が俺の耳に届くまで、告別式の翌日から半日もかからなかった。
相手はかわいらしい容姿をした子だったという話は、おそらく樹里の言っていた年下の男子高校生だろう。それに対し、土木作業員ながら細身で優男風の青年だったというのは、優作の先輩だという高校中退の男である可能性が高い。名前は確か……ハヤト、とか言ってたっけ。
百瀬の手前、これらの目撃情報は怖くてみんな言えなかったらしいのだが、美姫は死んでしまったし、肝心の百瀬も学校に来ていないということで、噂はあっという間に校内全体へと広がっていった。やれ魔性の女だの自業自得だのと美姫を悪く言うやつが後を絶たず、俺は毎日のように腹立たしさと格闘しなければならなかった。
――美姫は、そんなんじゃない。
どれだけそう思っていても、今の俺が何か言ったところで聞く耳を持つ人間なんてひとりたりともいやしない。声を上げても、黙っていても、孤立無援の状態から脱することはできそうになかった。
百瀬龍輝という男はとにかく素行の悪さばかりが目立ち、特に女子は積極的にあいつと関わろうとする人間のほうが珍しいらしい。百瀬の側も校内の女子には特に興味を示すことなく――美姫とは恋愛関係にあったが――、真偽のほどはさておき、夜の大人たちが集う都心部の繁華街に出入りしているという話は学校中に知れ渡っていることだった。
だから俺は、今でも美姫が百瀬と付き合っていたという事実を認めたくない。どんな事情があったとしても、百瀬とだけは恋人同士になってほしくなかった。
――全部、三年前の事件のせいだ。
あの事件さえ起きていなければ。せめて犯人が捕まっていれば、美姫はこんなことにならずに済んだかもしれないのに。
「くそ……っ」
授業が終わり、昼休みになる。一週間前からずっと、食欲が戻らないままだった。
行き先もろくに考えないまま教室を出て、込み上げる怒りを時折吐き出しながら、ただ呆然と校内を歩き回った。すっかり日常に戻って美姫の悪口を広めまくっているクラスメイトとはどうにも話をする気になれない。
「あ」
唐突に目の前に現れたその人の姿に、思わず声を上げてしまった。そこでようやく、音楽科の校舎へとつながる二階の渡り廊下にたどり着いていたことに気がついた。
「祥太朗くん……!」
楽譜なのか教科書なのかよくわからないけれど、数冊の本を束にして抱え、驚いた顔をしながらてこてこと俺のもとへ近づいてきたのは、俺と同じ東松町に住む幼馴染みのひとり・久郷冴香だった。
「どうしたの? こんなところで」
「いや……わかんない。俺、なんでこんなところにいるんだろ」
「……大丈夫?」
一五十センチほどしかない冴香に、下から顔を覗き込まれる。この小さな体からはとても想像できないダイナミックなピアノを冴香はいとも容易く奏でてしまう。冴香を見ていると、人間ってのはつくづく不思議な生き物だよなぁと思う。
「顔色、よくないよ?」
「そう?」
「ちゃんと眠れてる?」
「うーん、あんまり。冴香は?」
「私も、あんまり」
そっか、と俺が答えると、冴香はそれ以上何も聞いてこなかった。
もともと口数の少ない冴香とふたりきりで話した記憶はそれほど多くない。スポーツが得意だった美姫や碧衣と違って、冴香はどちらかというとインドアな遊びを好む穏やかな子どもだった。家で犬を飼っていて、俺の家にも犬がいる。冴香との会話はだいたいいつも犬の話かピアノの話と決まっていた。冴香に教えてもらったおかげで、実は俺も少しだけピアノが弾けたりする。冴香と違って音楽の才能には恵まれなかったから、今じゃすっかりご無沙汰になってしまっているけれど。
「……百瀬くん、なのかな」
「え?」
「美姫ちゃんを、殺した犯人」
何を言い出すのかと思えば、冴香は美姫の事件について話し始めた。
「冴香、おまえ……?」
「みんな思ってると思う。……百瀬くんなら、殺してしまうかもしれないって」
俺は思わず目を細める。口にしながら、冴香も視線を逸らしていた。
――百瀬なら、殺れる。
そう思う人が多いのも無理はない。百瀬自身が蒔いた種だ。裏社会の人間ともつながっているらしいという噂まであれば、誰だって真っ先に百瀬を疑ってしまうだろう。
「警察も百瀬のことを探ってるらしいな」
「そうみたいだね。学校に来ていないんでしょう?」
「通夜で見たのが最後だってみんな言ってる。マジであいつがやったのかもな」
冗談めかして言ってみたけれど、半分以上本気でそう思っていた。
逃げているんだ、きっと。美姫を殺した犯人だから。
どれだけの人員を割いて、警察は百瀬の行方を追っているのだろう。
「そうだね」
冴香が言った。
「犯人が百瀬くんなら、一刻も早く捕まるべきだと思う」
珍しく、冴香の言葉から力強さを感じた。心から許せないと、そう思っていることが伝わってくる。 冴香は昔から、どこか美姫に憧憬を抱いているところがあった。幼馴染みというよりも、明るく元気てスポーツも得意な美姫は、おとなしい性格の冴香にとって憧れの的だったのだ。
けれどもう、美姫はいない。
百瀬なのか、あるいは他の誰かの仕業なのかはわからない。いずれにせよ、美姫の命は何者かの悪意によって奪われてしまったのだから。
「……大丈夫? 祥太朗くん」
ぼーっとしていたら、冴香が首を傾げて俺を見上げてきた。
「ん?」
「後悔、してるんじゃない?」
冴香の指摘に、自然と眉間にしわが寄る。
「後悔?」
「うん。……祥太朗くん、美姫ちゃんのことが好きだったでしょう?」
「な」
それ以上、何も言葉が出てこなかった。目が泳いでいるのが自分でもわかる。
「わかるよ」
廊下の窓に視線を目を向ける冴香。すっかり秋らしくなった日差しが、柔らかく窓辺を照らしている。
「見ていたから、ずっと。だから、わかるの」
差し込む陽の光が浮かび上がらせるその横顔は、彼女が本気でそう言っているのだということをありありと物語っていた。
「…………何言ってんだよ」
気がつけば、言葉が勝手に口を衝いて転がり出ていた。
「そんなわけないだろ。美姫はただの幼馴染みだ。今も、昔も」
平静を装ってなんとか取り繕ってみたけれど、冴香は小さく首を横に振る。
「美姫ちゃんは、祥太朗くんのことが好きだったよ」
え、と口の形だけが変わり、言葉は音にならなかった。
またしても冴香が、俺の心に揺さぶりをかけてくる。
「……やめろよ、そうやって適当なこと言うの。美姫は百瀬と付き合ってたんだぞ?」
「本当だよ。美姫ちゃん、ずっと昔から祥太朗くんのことが……」
「やめろって!!」
張り上げた声に、びくっ、と冴香が肩を震わせた。俺は思わず、ぎゅっと拳を握りしめる。
――どうして。
どうして俺は、いつもこうなんだろう。
大事な時に、大事なことを伝えられない。
わかっているのに、一歩踏み出す勇気が出ない。
気づいた時にはいつだって手遅れだ。後悔なんて、これまで何十回何百回と繰り返してきた。
それでも、俺は変われなかった。
大切なものを、守れなかった。
「…………ごめん、でかい声出して」
小さく謝って、俺は冴香の顔も見ずにその場をあとにした。「祥太朗くん!」とかけられた声に、立ち止まることはできなかった。
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