60. あれから十日が経ちました🌟

1/1
118人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ

60. あれから十日が経ちました🌟

      「ユキちゃん。すごく寂しいよ」  先輩は小首を傾げ口を尖らせ、長い睫毛をばさばささせて、俺を上目遣いに見た。まるでディ○ニー映画のヒロインだ。  「何言ってんですか。お昼休みには会えるでしょ?」  「うん、だけど…」  先輩が名残惜しそうに俺を見る。俺のヨダレが床まで垂れ下がってしまわないようにするのもそろそろ限界だった。  予定通り、俺はバースデースピーチの翌日火曜日から工場勤務についていた。俺が空けた席には前任の塩田さんが復帰することになった。結果、先輩はまた“ガンダム漬け”の毎日へと戻った格好だったのだが、まだ一週間しか経っていないというのに、先輩はちょくちょく課を抜け出して工場の俺のところにやってくる。  「そうだ、今日のお昼はベーグルですよ。今日のは自信作なんで、お昼、楽しみにしてて下さい」  今日の昼飯当番は俺だ。昨日の内に仕込んでおいた俺製豆乳ベーグル。クリームチーズにスモークサーモン、生ハムは今はそこの管理室の冷蔵庫に入ってる。スープはパスタ入りミネストローネ。豆乳製造ブースに保管中だ。  「本当?楽しみ❤️」  先輩は目をキラキラさせて大袈裟に肩を竦めた。はっきり言おう。こんな先輩を見るのは、初めてだ。いつもキャッキャウフフとしているが、それでもこれまでは、なんのかんの言ってもそれなりに上司っぽい威厳というか、慎みがあった気がする。さすがにここまでベタベタすると、演技過剰の感は否めない。だが、ここで怯んでどうする。社の誰もが認める一二を争うイケ(ヅラ)にここまで受け受けしい役回りをさせておいて、乗らないなんて男が廃る。  「ええ。楽しみにしてて下さい。お昼まで…」  壁に掛かった時計に目をやる。  「あと、たったの二時間四十分ですよ。俺も楽しみにしてます。だからちゃっちゃと仕事を片付けちゃいましょう」  「…うん、じゃあ、行ってくるよ」  そう言うと、先輩は先刻まで散々粘っていたのとは打って変わってサラッと手を振り営業部へと去っていった。俺は、先輩が廊下を折れて姿が見えなくなるまで手を振り、管理室へと戻った。午前の部はこれで終わり。昼食後にもう一回これっぽいルーチンがある。  工場勤務についてからまだ一週間だが、先輩と俺の関係は良好、否、上々だった。こんな"イチャイチャごっこ"が出来る程の、未だ嘗てないデレ期を迎えていた。誕生日の夜のことがあってから、俺も、そして先輩も、お互い近寄るには手探りが必要な状態だった。多分、今も二人きりになればそうなってしまうだろう。 だが今回の移動で、ことさら離れた部署に身を置き、限られた時間の中で会うことで、緊張感が生まれ、メリハリが付き、コミュニケーションの濃度が格段に上がった。もう俺は、上を向こうが下を向こうが首さえ振れば必ず視界に入る、いつも先輩の隣にいる空気のような存在ではなくなったのだ。 そして、これもまたお互いに言えることだが、社内で人目にさらされた状態にある方が、なんのかんの言っても無意識にでも自制が効くという安心感からか、却ってリラックスした状態で心置きなくイチャイチャできるという奇妙な効果を生んでいた。いくらなんでも他人がいるところで、俺も先輩に襲いかかることはないし、先輩も"先輩だけどいつもの先輩じゃない何か"に突如変貌することもないだろう。元々チャラチャラした職場だ。ひやかしこそすれ、誰も咎める奴なんて居ない。やはり物理的な距離を置いてみて正解だった。俺は自分の判断に手応えを感じていた。  そして仕事の方はと言えば、俺は生産ライン辺りから始めるものだろうと予測していたが、若干外れていた。  「✨僕、直属の部下を持つのって初めてなんだよ!✨」  俺の仕事はやっぱり雑用と”おつかい”だった。専務は俺が工場に入った瞬間から大張り切りだった。専務の下に付くと言った覚えは俺はまったくなかったのだが、人事権限のある専務が言うんだから、そうなんだろう。端から専務の仕事を盗む気満々だったが、そういうつもりはなかった。昨日のスピーチで『受けて立つ✨』とか言ったの専務じゃんっていうか、いくら直属の部下にして貰ったところで、一年半後には確実に裏切りる腹づもりだ。棒立ちの俺など意に介することなく専務はゆったりしたマシンガンのように喋り続けた。  「ユッキーには、もっと前からいろんな業務に関わって欲しいと思ってたんだよ!!だけどえーちゃんが、ちっとも貸してくれないからさ、ずっと気にかかってたんだよ!」  まるで俺を玩具かなにかの様に思っているな。ひとこと言いたかったが、言葉を継ごうにも専務がそれを許さない。  「僕、いろいろやること多いからね、常々補佐が欲しいなって思ってたんだ」 「専務兼常務兼開発部長だからね、ウチの規模ならそんなに沢山のポストいらないと思ってたんだけど、一人でやってみると意外と大変でね」 「まさかユッキーが自分から飛び込んで来るとは思わなかったけど、ユッキーって本当、面白いね。さすがえーちゃんと社長が目を付けただけのことはあるw」 「えっとねー、今日は僕はね…」  専務は口調はゆったりなんだが、何故か他人に口を挟ませない独特の空気と間合いを持っている。全く隙がないのだ。いつでもどこでも、専務が話す気にさえなれば、そこは完全に専務の独壇場になってしまう。俺はまだ朝の挨拶以降、一言も発していなかった。先輩ですら音を上げるこのテンション。専務とは社内では上下関係は当然あるが、一応オフには一緒にバンド練習までする仲だ。専務の性格は十二分に知っているつもりだった。やたらと頭が回って切り替えも早い、気まぐれで、好奇心旺盛で、アグレッシブル。いつも上機嫌だが、所々で理想が高く、そこそこに完璧主義で、そして拘るところでは、とことんシツコイ。だが、バンドの時の専務、もとい、あっちゃんは、まだまだ序の口。ビジュアル系バンド→ザバスの御風呂場の“あっちゃん”が、御風呂場豆腐店の専務に進化した時、それは端的に言えば第二形態だ。パワーも倍、速度も、そしてシツコサも倍かそれ以上だということを、俺はまだ知らなかったのだ。このテンションが夕方まで続くのかと考えると、とてつもなくハードに思えた。俺は煮立った鍋に飛び込んだでしまった蛙の気分だった。  それでも実際やってみると、専務の下で働くのは予想外に楽しかった。先輩との仕事が退屈だったわけではないが、毎日、時間刻みにクルクル変わる業務、新しい試み、発見と驚き、様々な試行錯誤、調整、検品、緻密な整備、時々ヨガ、工場の職人さんやパートさん達のご機嫌をとることも忘れない。お昼には有志でバレーボール、マネージャーや営業と連携を取りながらの製造ラインの管理と調整、シフト入れ替えと構築。ソフト面、ハード面、切り替えの速さが要求される、まさに目が回る内容だった。 専務は自分からどんどん動いていく人だが、俺への指示も的確で、話が早かった。  そして何より俺自身が、確実に接客よりも作業向きの性格だと思う。専務は、次々と(九割方ボツになるわけだが)新しいアイデアを生み出し、そしてそれ等を実行に移すのに制限がない。飽きる暇もなく仕事が埋まっていく。忙しい。忙しいが、飽きない。これは専務(あっちゃん)でなければ熟せないと一日目で悟った。 とはいえ、走り出した限りは簡単には止まれない。そして速度が上がれば上がるほど、止まることが困難になっていくのだ。 俺の一日目の工場業務は、体感では四十分くらいだったが、その日、工場に入った瞬間を思い起こせば、それはとてつもなく遠い、何日も前の出来事のようにも思えた。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!