第一章 三桁

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 八百徳のうなぎでお腹がいっぱいです。  兄は僕をアパートまで送ってくれました。 「授業に遅れないように」 「分かっています」 「もっと相生に顔を出すように」 「分かっています」  兄が去りました。  部屋に入ります。車のキーを取ってまた靴を履きます。アパート裏の駐車場にヴィッツを停めています。  せっかく仕事が決まったのです。伝えなくてはなりません。  笠井(かさい)街道を北へ走ります。原島(はらじま)変電所の辺りで横道に入ります。大きさも年季も意匠もまちまちな家が並んでいます。ブロック塀の前に車を停めます。  瓦屋根の木造住宅のチャイムを鳴らしました。玄関は木枠のガラス戸です。磨りガラスの向こうに人影が現れます。小柄です。 「僕です」  声をかけます。人影が動きを止めました。 「奈緒さん。僕です。優二です」  木枠をノックします。夜分ですので強さには気をつけます。人影は急いで錠を外しました。  戸が開き、奈緒さんが顔を覗かせます。お化粧をしていません。清楚です。会うのは一ヶ月ぶりです。別居する前は毎日会っていました。 「こんばんは」 「どうしたの。こんな遅くに」 「実は仕事が決まったのです」 「そう」  奈緒さんが家の中へ振り返ります。 「近々お金を返せます」 「ええ」 「本当ですよ」 「分かってる」  奥から人の声がしました。聞き覚えのある声です。  奈緒さんが家の中へ振り返ります。 「来客ですか」 「光輝(こうき)が帰ってるの」  光輝くんは奈緒さんの息子です。彼の父親は僕です。今は二十歳前後です。東京の大学に通っています。僕の母校よりいい大学です。 「今は学期中なのではありませんか」 「連休中だけね。成人式だから」  そういえばそんな時期ですね。 「会うのは一年ぶりです」  開いた戸の隙間から中を覗きます。  奈緒さんがどきません。首を横に振ります。 「やめて。あの子、優二さんに会ってるっていうと怒るの」 「なぜでしょう」 「赤の他人に金をやるなって」  光輝くんは大学生です。母方の祖父母に養育されています。この家も祖父母の家です。光輝くんは他人のお金で生きているのです。よくそんな偉そうなことが言えたものです。  そもそも僕はお金をもらっているのではありません。借りているだけです。返すに決まっています。だからこそ報告に来たのです。 「光輝くんと話をしないといけません」 「いいの。会わなくていいの」  奈緒さんが首を横に振ります。俯いています。顔が見えません。 「しかしですね」  奈緒さんが下駄箱の上のお財布を手に取りました。取り出した一万円札を突き出します。 「帰って」 「僕たちは親子です」 「分かってる」  奈緒さんはもう一枚お札を取り出しました。 「また来ます」  奈緒さんは何も言いません。  敷居に差し入れていた足をどかします。  奈緒さんが戸を閉めました。錠を落とす音がします。磨りガラスから人影が消えました。玄関が暗くなります。  ヴィッツに乗ります。アクセルを踏みます。大きな通りに出ます。  夜でも開いているスーパーマーケットに寄りました。買ったのは大きなローストチキンとシャンメリーです。  食べきれませんでした。よいのです。これは就職祝いです。自分へのご褒美なのですから。
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