前章

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 ゆらゆらと、蜃気楼のように揺れる記憶。  私の記憶の底で、それは、根の生えたカゲロウのように、居座っているのだ。 ――「あなた、見所があるわ」  そう言った女の人は、とても美しい人だった。顔はぼんやりとしか記憶にないのに、その人を見て感じた美しさへの感銘だとか、彼女の高揚した声音とか、そういったことは、揺ぎなく私の記憶に居座っている。  どこの誰かわからないし。  どこで出会った人なのかもわからない。  なのに。  なぜか、ずっと、私の記憶のなかに彼女はいる。  美しすぎる、悪魔のような笑みを浮かべて。  朝起きると、簡単に身だしなみを整えてから、ダイニングキッチンで朝食を作る。  最寄り駅から、徒歩十五分。1LDKという広さのマンションに一人暮らしの私は、当然ながら、身の回りのことは自分でやらなければならない。  一人暮らしを始めたのは、中学にあがると同時だから、かれこれ六年以上経つ。一日の家事もろもろの行動はすでに確立しており、決まった日課をこなしつつ、朝食をつくってゴミをまとめ、作り立ての朝食を食べ終えてから、また、軽く身だしなみを整える。  今年から専門学生になったため、制服を着る必要がなくなったのはかなり時短になる――そう思っていたときもあったが、毎日着ていく服を用意して、選ぶというのも、面倒だと知った。  私は、衣類にはあまり頓着しない。正直なところ、数日同じ衣類でも過ごせるし、毎日お風呂へ入らなくても生きていける。  だが、最低限身だしなみを整えなければ、クラスメートや教師の目がある。そんなことか、と思うかもしれないが、これはとても重要なことだ。「昨日と同じ服じゃない?」とクラスメートにからかわれるくらいならばよい。だが、一人暮らしというだけで、ややうがった目で見られている身としては、不衛生さを見せると、すかさず教師らから探りが入る。  特に、担任の矢賀先生からは、微妙な目で見られていた。壮年の男性教師である彼は、私が中学生のころから一人暮らしをしていると知っているから、まるで哀れな我が子を見るような目で私を見る。何かにつけて、「大丈夫なのか」とか「毎日、ちゃんと食べているのか」とか、声をかけてくれるのだ。  気遣ってくれることは、有難い。私を見ていてくれる人がいるのだから。けれど、過剰な心配はかけたくはないし、あまりしつこく問いただされると、正直辟易するものだ。  同じ十八歳のクラスメートは、大体が実家から通っている。一人暮らしをしていても、寮生活をしている者ばかりだから、矢賀先生の心配は、お察しするけれど。  つまり。  悪目立ちしたくないがゆえに、私は、最低限静かに過ごしたいと思っている。何事もなく、つつがなく。  ただ、平穏に。  それが、私の今の望みだ。
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