8.7℃

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8.7℃

 父親が再婚した。  彼らの、挙式もなにもないシンプルな入籍祝いには、私も出席した。お祝いの席に着く人間自体が、父とその妻になる人と私だけ。そんなささやかなひとときだった。  新幹線の時間まではまだ余裕がある。ふたりに余計な気を遣わせたくなくて、その辺をぶらぶらしてから帰るね、と告げて別れたのはつい三十分前のことだ。  薄いピンク色のフォーマルタイプのワンピースに、それより少しだけ濃い色の花柄の傘。ここ一年伸ばし続けている肩下までの髪が、湿気を含んで重苦しく感じられてしまう。  高校時代までを過ごした実家からほど近い小さな公園へ、自然と足が動いた。  ここに来るのは避けていた。大学に入って以降はほとんど帰省しなかった分、なおさらその機会はなかった。  今日は気まぐれに立ち寄ったが、大学と同じく都心部での就職を考えている以上、私はもう、この街には滅多に足を踏み入れなくなるに違いなかった。  しとしとと降り注ぐ細い雨が、さして古くもない記憶を蘇らせる。  街全体が特有の蒸し暑さに染まり始めた梅雨の時期、生ぬるい雨。あの日、この場所で浴びた雨はもっと勢いが強く、まるで肌を刺すようだった。傘を持たない無防備な私の肌を、心ごと何度も刺し貫いては凍りつかせた。  今はまさにあの日と同じ季節で、けれど今日の雨はあの日の雨とは違う。  今降り続けている細い雨は、私に痛みを連れてこない。刺すような鋭さも強さもない。  不快な湿気が、身体と心にただ重くまとわりついてくるだけ。      *     ***      *  四年と少し前――高校三年の初夏。  その日、私は人生で初めて家出を体験した。  小学生の頃に両親が離婚して以来、私は父とふたりで暮らしてきた。だが、父子ふたりきりの生活は、その年の春に唐突に揺さぶりをかけられた。  父に恋人ができたのだ。相手は父よりもむしろ私に齢が近い、母と呼ぶには抵抗を覚えざるを得ない、若々しく美しい女性だった。なぜそんな人が父のような疲れたおじさんを選ぶのかと、訝しくなるほどの。  気持ち悪くて仕方なかった。  大学受験を控えた大事な時期、ふたりとも大層私を気遣ってくれる。その気遣いすら厭わしかった。  気を揉むくらいなら付き合うな、いい齢して馬鹿じゃないのか。当時の自分はそうとしか思えなかったのだ。  特別なきっかけがあったわけではなかった。それまでに静かに積み重ねられてきたものが、その日ついに私の中で沸点を超えたというだけだ。  三人一緒に夕食を取ろうと提案してきたのは、父の彼女さんだった。自分の恋人が前妻との間にもうけた年頃の娘相手に、ものすごく神経を遣って接している。それが痛いくらいに分かって、さすがに申し訳ない気分になって、でも。  気分が悪いから外を歩いてくる。ご飯、せっかく作ってくれたのにごめんなさい。  それをきちんと伝えられただけでも、私は心底ほっとしていた。父を気持ち悪いとは思うけれど、だからといって、苛立ちに任せてふたりの関係をぶち壊してしまいたいとまでは思えなかったからだ。  細いながらもやや強めの雨が降りしきる中を、あてもなく歩く。  そういえば、先週梅雨入りしたのだったか。何日か前、朝のニュースで気象予報士がそんなことを言っていた。 (傘、忘れてきちゃったな)  ぼんやりと考えながら、弱々しい街灯に導かれるまま、自宅近くの公園にふらりと立ち寄る。びしゃびしゃに濡れた白塗りのベンチに座る気には到底なれず、途方に暮れてしまう。  どうしようか。  どこに行こうか。  テストだって近いし、さっさと帰って勉強したほうがいい。  けど、私に帰る場所なんて、もうないんじゃないのか。  信じられないほど心細くなった、そのときだった。 「……(かみ)()?」  聞き覚えのない低い声が背後から聞こえ、弾かれたように振り返った。  その先で、黒い傘を差しながら、驚いた様子で立ち尽くす男の人と目が合った。      *  声をかけてきたのは、高校の同級生の神崎(かんざき)くんだった。  同じクラスになったことは一度もない。ただ、名字に同じ文字が入っているからなんとなく印象に残っていた。  それに、とかく噂の多い人だった。成績が優秀だということと、女遊びが激しいということで。  高校生なのに家を離れてひとり暮らしをしているのは、取っ替え引っ替え女を連れ込むためだとも囁かれていた。  下世話な噂は皆大好きだから、受験関連のストレス発散を兼ね、水面下でどんどん広まっていく。しかもおそらくは尾ひれ背びれをつけて。  彼のクラスと教室が隣り合うでもない私の元へも、その噂は詳細までしっかり届いていた。  彼と言葉を交わすのは、初めてだった。  公園から歩いて一分かかるかかからないかの場所に建つ彼の自宅アパートに促され、濡れた髪を拭くようにとタオルを手渡された。  最後に、男物ですけど、とだぼだぼのTシャツとズボンみたいなハーフパンツを差し出された。  普段なら、見知らぬ男子の服に袖を通そうとはきっと思わなかった。けれど私はそれを受け取った。非日常特有の不可思議な感覚に、すっかりあてられてしまっていたせいだ。  なぜひと目で私を認識できたのか、それも後ろ姿だけで。  手渡された服に着替え、髪を拭きながら思う。 「ほとんどはじめましてなのに、なんで私の名前、知ってたの?」 「いや、なんとなく……名字に入ってる字が同じだったから印象に残ってた」  着替えている間廊下に出てくれていた神崎くんは、律儀にも質問に答えてくれる。 「へぇ。一緒だね、私も名字で覚えてた」  Tシャツに袖を通し終えてからそう返すと、神崎くんはその日初めて声をあげて笑った。  本当は名字と一緒に過激な噂の数々も記憶していたのだけれど、もちろんそんなことはわざわざ言わなかった。  さして新しくもなさそうなアパートの二階、窓からは雨の音が響いてくる。  向かって右側の出窓からは確かに、先ほどまで私が彷徨い歩いていた公園の景色が覗いていた。  ……あそこをひとりでふらふら歩いていたのか、自分は。  辟易の溜息が出た。この暗がりの中を、と思えばなおさら怖くなる。  出窓に沿って設置されたシンプルなデスクの上には、ノートや問題集がところ狭しと広げられていた。勉強中だったらしい。  わざわざ勉強を中断してまで外に出て、私に声をかけてくれたのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ないな、と思う。 「……私さ」  彼の手を煩わせた罪悪感を唐突に紛らわせたくなった私は、家に帰れない――否、帰りたくない理由を切り出した。  なにを訊かれたわけでもなかったけれど、テスト前の大事な時期に勉強の邪魔をしてしまったことが気懸かりで、つい言い訳したくなったのだ。  結果的に、気が滅入るほどに重い話ばかりしてしまった。これはむしろ迷惑だったかなと気づいたのは、父親との確執についての詳細すべてを話し終えた後。途中からは涙まで落としながら喋り続けていた。  それなのに、神崎くんは話を中断しようとしなかった。  途中から勉強を再開しようともしなかったし、早く帰れとも言わなかった。  不意に、学校で囁かれている噂が頭を巡った。女を取っ替え引っ替え……接してみた限りでは、そうしたイメージはさっぱり湧かない。  整った顔をしているとは思う。だが、そういう火遊びが難なくできてしまえそうな、いわゆるチャラチャラしたタイプには見えなかった。  ……いや、単純に私が女として捉えられていないだけかもしれない。  自虐めいた考えが頭を過ぎり、「もうちょっとしたら帰るよ、今日はありがとう」と、私はわざとへらへら笑って伝えた。  笑う私の顔を見て、神崎くんは不機嫌そうに眉を寄せた。 「……そろそろ服、乾くと思うから」  素っ気なく告げられ、目を逸らされる。  気に障るようなことを言ってしまったかな、と怯んだものの、ひとりで考えても答えなど出るはずもない。  涙に濡れた私の笑顔はさぞ汚かっただろうし、だからかもしれない――そう思うことにした。      * 『雨が涼しくて気持ち良かったから、ちょっと長くなっちゃった』  あの日、ただの散歩にしては遅く帰宅した後。  私が咄嗟に口に乗せた言葉を、父は嘘だと見抜いていた。多分、彼女さんも。  でも、ふたりともそれ以上なにも言わなかった。  以来、私はどちらともほとんど口を利いていない。  それから、下校後や週末などに、ときおり神崎くんの自宅へ遊びに行くようになった。  抱き合うこともあるし、キスをすることもある。キスは初めてではなかったけれど、大人のキスは神崎くんとが初めてだった。  本人に好きだと伝えてはいないし、伝えられてもいない。ただ、一緒に勉強していてふと鉛筆が止まったときだったり、息抜きにとふたり分のコーヒーを淹れているときだったり……神崎くんは隙を見ては私に触れたがった。  最初こそ心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いたけれど、一度触れ合ってしまえば、後はもう雰囲気に流されるばかりだ。  どうしてそんなことをするのか、わざわざ問う気にはなれなかった。はっきりした答えを知るのが怖かったからだ。  例の噂は嘘だった。神崎くんは、女の子を取っ替え引っ替えなんてしていなかった。  彼の部屋には、私以外の誰かが出入りしている雰囲気がちっともない。本人もまた、『友達どころか家族だって滅多に来ない』と不機嫌そうに口を尖らせていた。  ひとり暮らしの理由は、単に実家から学校までの距離が遠すぎるという、それだけの話らしい。神崎くんの実家はかなりの田舎で、交通の便が非常に悪いそうだ。  私たちが通う高校は県内でも指折りの進学校で、隣の市から通ってくる生徒も少なくない。三年間通い続けるつもりなら、確かに実家を離れたほうが、他の方法より効率的なのかもしれない。  例の噂の出どころは、高校に入ってすぐの頃に付き合った女子だという。多分だけど、と、神崎くんは口数少なく教えてくれた。  勢いに押されるまま付き合い始めたら、我侭がすさまじかったらしい。彼女のせいで碌に勉強の時間が取れなくなってしまった神崎くんは、辟易しながら別れを切り出したそうだ。  そうしたら思いきり平手打ちされた挙句、『あいつは女と見れば誰でも食い漁る最低男だ』とかなんとか、さんざんなことを言いふらされたのだとか。 「あんまりじゃない、それ? なんでちゃんと言い返さなかったの?」 「面倒くさかった。それに、その噂があれば、普通の神経してる女なら誰も俺に寄ってこなくなる。だったら別にそれでいいかと思って」  淡々と語る彼の声を聞き入れた途端、ちくりと胸になにかが刺さった。だが、その痛みの原因を追うよりも先に、妙な感心が胸を満たしていく。  神崎くんは整った顔をしているし、クールな印象もある。となれば声をかけてくる女の子は多いはずだ。年頃の男の子なのだし、興味だって皆無ではないだろうに、その辺をばっさり〝面倒〟と言いきってしまえるとは。  けれど、そう言いながらも神崎くんはどこか寂しげだった。  この人は、別にひとりでいるのが特別好きというわけではない。長い時間ではないにしろ、傍でふたり一緒に過ごしたことで、その程度なら私にも理解できる。  噂のおかげで女子から声をかけられる機会は激減したものの、同時に男子からも敬遠されるようになったという。  女子に注目される同性に対する男子たちの複雑な心境も分からないではないが、その点は、神崎くんにしてみれば盲点だったのかもしれない。  面倒くさい。  再びそう零した神崎くんは本当に面倒そうで、やはり寂しそうにも見えた。  その頃になって、胸の奥がじくじくと痛み始めた。  さっきのひと言が妙に引っかかる。淡々と語られたせいで、余計に。 『普通の神経してる女なら』  ……どうせ私は〝普通〟じゃない。  いや、それ以前の問題だ。私たちは付き合っているわけでもなんでもないのだから。  神崎くんは、私と下校したり遊びに行ったりしたがらない。この部屋以外の場所で私と過ごすのが、あまり好きではないらしい。  ふたり一緒にいるところを他人の目に晒したくなさそうな態度を、ここまで露骨に取られてしまうと、寂しくもなるし卑屈な気分にもなる。  その癖、この部屋の中では人が変わったように私に触れたがる。それでいて、そういうことをする理由を話してくれはしない。  遊ばれているわけではないと思う。さりげないその優しさを信じたい、とも。  でも、言葉にしてもらえない不安は、気持ちとは裏腹に、日に日に私の心を食い潰してはそれを餌に肥え太っていく。  じくじく、じくじく、胸の奥が重くて痛い。  その痛みは、初めて彼と言葉を交わした夜に降っていた細い雨に――不快な感触と生ぬるさによく似ていた。      *  二月末。  冷たい冬の雨が轟々と降りしきる夜、私は父に殴られた。  いつものように、彼女さんが自宅に訪れた日だった。  顔を合わせたくなくて早々に『出かけてくる』と伝えたら、日頃から耐えかねていた面もあったのか、父は声を荒らげて止めてきた。 『高校生が夜中にどこへ行くつもりだ』 『こんな大雨の日にまで行かなきゃいけない場所なのか』  近頃めっきり聞かなくなっていた父の荒れた声に、恐怖よりも先に感じたのは猛烈な苛立ちだ。  ……うるさい。うるさいうるさい、うるさい。  あんたたちに会いたくないからだろうが。反吐が出る、自分の娘よりも恋人のことばかり考えて舞い上がって、勉強中に浮かれた声を聞かされる身にもなってみろ。 「うるさいな……っ、あんたらと同じことしてるだけでしょ!!」  叫ぶや否や、父の顔が真っ赤に染まったさまを見て取った。  大きく振り上げられた手が見え、場違いにも笑ってしまいそうになる。父の腕に縋りついた彼女さんが涙目で止めに入る様子を横目に、とうとう私は声をあげて笑い出してしまった。  いいよもう。どうせ私、もうすぐここ、出てくんだし。  東京に進学するって伝えたとき、誰より安心してたのはあんたでしょ。  鈍い痛みが頬を走り、それは瞬く間に頭の中を引っ掻き回し始める。  殴られたのは生まれて初めてだった。私を引っ叩いた手を押さえながら、泣きそうな顔をしている父親が見える。  馬鹿みたいだ。そんなに痛いなら、最初から殴らなければ良かっただけの話。 「……最低」  最低だよ。  あんたらも、私も、皆。  興奮も苛立ちもやるせなさもそのままに、私は家を飛び出した。  公園まで走る間、雨に溶けてぐしゃぐしゃになったシャーベット状の雪が無駄に滑り、すぐにうまく足を動かせなくなる。コートも羽織らず衝動的に家を出た私は、簡単に身動きが取れなくなって……寒くて仕方なかった。  白塗りのベンチの前にうずくまって携帯を手に取り、ある番号が表示されたところで、震える指を無理やり止める。  通話ボタンを押そうとしたそのとき、こちら側に近寄ってくる焦ったような足音が鼓膜を叩いた。 「神谷!!」  また笑ってしまいそうになった。  ……なんでだ。まだ電話、かけてないのに。  なんでわざわざ来てくれるんだ。なんでそうやって優しくするんだよ。  雪より冷たい大雨の中、私のために着の身着のまま部屋を飛び出して……そんなのは面倒くさがりな神崎くんらしくない。  嫌い。嫌いだ、あいつら皆。  でもね、私、私が一番、嫌いなの。  携帯を握り締めて声と涙を一緒くたに零し続ける私を、神崎くんはいつかのように自室へ連れていく。  今度は、タオルを手渡されるわけでも、馬鹿に大きなTシャツを差し出されるわけでもなかった。  玄関のドアを開け、私を室内へ押し込み、彼は空いた手でドアの鍵をかける。真っ暗闇のその場で、泣きじゃくる私の唇は、ひどく性急な仕種で神崎くんのそれに塞がれてしまった。  今まで交わしたどれよりも荒々しく感じたそのキスは、涙の味しかしなかった。  寒くて寒くて仕方なくて、なのに唇だけ意味が分からないほど熱い。  神崎くんとするキスが好きだ。  あたたかくて優しくて、頭の中身がどろどろに溶け落ちてしまいそうになって……おかしい。  ……なんで今、私たち、こんなことしてるんだっけ。  この春から、神崎くんは地元の国立大へ、私は東京の大学へ進学する。  今までみたいに会えなくなっちゃうね、と先日つい零してしまった。泣きそうな気分をごまかしながら無理に笑って伝えたその言葉に、結局、神崎くんは黙ったきりで最後までなにも返してくれなかった。  好きになったのは、頼りたいと思ってしまっていたのは、私だけだった。  それがものすごく寂しくて、なのになんで今頃になってから、こんな。  腫れ始めていた頬を、長い指がそっと掠める。同じ場所を今度は唇が這う。不意に走った生温かさに、私は堪らず肩を震わせた。  わずかな反応を見逃さなかった神崎くんは、私の手を強く引き、ベッドへ押し倒した。パイプ製のシングルベッドはふたり分の体重に驚いてか、ぎしぎしと悲鳴じみた音を立てる。なんだか動物の鳴き声みたいだと、私はぼうっと思う。  いつかこんなことになるのではと、心のどこかでずっと思っていた。  それは期待であり、不安でもあった。そして別れが差し迫った今となっては、そんな気持ちよりも遥かに大きく、諦めに似た感情が膨れ上がってしまっている。  別に、私はこういう形を望んでいたわけでは……ああ、考えるの、もう面倒くさい。  ねぇ、神崎くん。  私、神崎くんが言ってた〝面倒くさい〟の意味、やっと分かったよ。  誰かと和解することは、他人と理解し合うことは、本当に面倒だ。  本当の気持ちを伝えるのが面倒。うまく伝わらないかもしれないから。  罵倒することさえ面倒。私を傷つける言葉が返ってくるかもしれないから。  ――それでも私は、神崎くんにだけは、面倒だと思わないし思われたくもない。  言うべきだった。気持ちを自覚した時点で、きちんと伝えるべきだった。  好きだと伝えなかったのは、迷惑かもしれないと思ったから。それでもここへ通い続けたのは、少しでも一緒に過ごしたかったからだ。  けれどそれも、私はただ面倒ななにもかもから逃げたかっただけではないのか。そのことを、神崎くんは最初から見透かしていたのではないか。  そう思ったら最後、今からでも伝えるべきではなどという意志はあっけなく掻き消えてしまう。  たどたどしい手つきで、神崎くんは私に触れる。手慣れた感じは一切なかった。  玄関での強引なキスとは違い、私に触れる彼の指は震えていた。丁寧に丁寧に、冬の空気と冷たい雨に凍えた私の身体を指でなぞっては、同じ場所に唇を寄せる。  この部屋に避妊具があるという事実に、ショックを隠しきれなかった。  例の噂は多少なりとも真実なのかもしれない。そう思ったら怖くて怖くて、詳細を尋ねる勇気など私には少しも出せなかった。  心がじくじく痛む。息が詰まる。だからこそ、それ以上に身体を痛めつけてほしかった。  こんな心の傷なんかより、もっと痛くて苦しいものがこの世にはあって、それをどうしても神崎くんに証明してほしかった。神崎くんでなければ嫌だった。  それをしている間、神崎くんはなにも喋らなかった。  一度だけ『可愛い』と言われた気がするけれど、逼迫しきった頭ではうまく理解できなかった。次第に、そんなものは私の妄想が膨らんだ結果の幻聴なのかもしれない、とすら思えてくる始末。  好きな人と身体を重ねた。  それはとても嬉しいことだったはずなのに、幸せを感じられるはずだったのに、私の涙は止まらなかった。  その後、どれほど優しく口づけられても、どれほど丁寧に抱き締められても、全然止まらなかった。      *     ***      *  卒業式には出席しなかった。  引越の準備があるから、と言い訳した。父にも、自分自身にも。  神崎くんのいない日常にはすぐ慣れた。  けれど、心の中にぽっかりと穴が空いたような気分は、この三年あまり一度も消えてなくならなかった。  在学中に何人かの男の人に告白されたが、断るばかりだった。そうこうしているうち、やがて私に声をかけたがる奇特な男性はひとりもいなくなった。  帰省はほとんどしていない。  就職活動の忙しなさが一段落した今月の中旬、私のアパートの近くまで立ち寄ったという父と彼女さんと一緒に、三人で食事に行っただけだ。  そのとき、再婚するつもりだと伝えられた。でも、私の許しがないなら諦める、と。  反射的に、私は首を横に振った。かつて確かに感じた嫌悪も意地も苛立ちも、最初からなにひとつなかったかのように。 『私のことはいいから、ふたりの気持ちを大事にして結論を出してほしい』  そう伝えたとき、彼女さんは泣いていた。  式は挙げないと言っていたから、それなら三人でお祝いしませんか、と提案した。今月末ならまとまった時間が取れそうだから、もし良かったら。それを聞いていた父の目も、妙に赤く染まって見えた。  別に私は丸くなったわけではなく、かといって面倒だからと思考を放棄したわけでもない。ただ、余計なことは言わなくてもいいかと思ったのだ。そしてそれは多分、面倒だからという理由によるものではない。  食事会の当日、帰り道。  薄いピンク色のフォーマルタイプのワンピースに、それより少しだけ濃い色の花柄の傘。ここ一年伸ばし続けている肩下までの髪が、湿気を含んで重苦しく感じられてしまう。  遊歩道に設置された白塗りのベンチは、以前よりも色褪せて見えた。  しとしとと降り続ける雨はどことなく重い。しかし、遠目に覗く空の先では、雲の切れ間から陽の光がまっすぐ伸びている。神様でも舞い降りてきそうな雰囲気だ。  六月末の夕方、一年で最も日の長い季節の雨。傘で弾ききれなかった残滓がじっとりと肌を湿らせる。  その温度が、あの日と――初めて家出をした日と同じくらい生ぬるく感じられ、ふと傘を放り投げて走り出してしまいたい気分になる。  結局、私は躊躇した。降って湧いた衝動を実行には移さず、ただ静かに深呼吸をして、思う。 (こういうことなのかな、大人になるっていうのは)  思わず苦笑が零れ、私はおとなしくぱちんと傘を閉じた。途端に細い雨に全身を包み込まれ、本当にあの日みたいだと思う。  ふ、と控えめな溜息が口をついた、そのときだった。 「……神谷」  背後からかかった低い声に、心臓が派手に軋んだ。  ……まさか。これではまるであの日と同じだ。記憶が綯い交ぜになり、なかなか振り向けずにいる私へ、畳みかけるように声が続く。 「部屋から見えたから、走ってきた。神谷に会いたくて」  ……部屋から見えたって、なに。  あれから三年以上経っているのに、君はまだあの部屋に住んでいるのか。君が選んだ大学に通うなら、もっと近くて便利な物件なんていくらでもあるだろうに。 「……まだ、あそこに住んでるの?」 「うん。神谷と一緒に過ごした部屋だから、どうしても引っ越せなくて」  ゆっくりと振り返った先には、記憶よりもほんの少し大人になった神崎くんがいた。  私が知る神崎くんより髪が伸びていて、それに妙に饒舌だ。けれど、どことなく緊張の滲む顔を見る限りでは、単に必死に口を動かしているだけなのかもしれない。  神崎くんは傘を持っていなかった。  うっすらと雨に濡れた髪と肩が視界に入り込み、どれだけ急いで飛び出してきたんだと笑ってしまいそうになる。  それなのに、私は笑えなかった。  それどころか、じわじわと涙が瞼を覆い始め、そして。 「お父さん、再婚したの」 「うん」 「今日、そのお祝いだったの。私、ちゃんと……お祝いできた」 「……うん」  久しぶりの再会だというのに、随分と脈絡のない話を切り出してしまった。そんなことより話すべきことはたくさんあるはずで、でも。  瞼を覆っていた涙が、許容量を超えてぽたりと落ちる。  いつの間にか私のすぐ傍まで近づいていた神崎くんは、あの冬の日と同じく、涙の伝う頬を指先でそっと撫でてくれた。  その瞬間、声が勝手に喉を通った。  心の底にのさばり続けてきた思いが、ぽろぽろぽろぽろ、堰を切ったように溢れて零れ落ちていく。 「神崎くんに、会いたかった」 「……うん」 「ずっと会いたくて、けど、怖くて、ここには……来れなかったの」  涙で霞んだ視界の端へ、伸びてくる両腕が覗いた。  きつく身体を締めつける感触と、細い雨が柔らかく髪を叩く感触が、融け合ってひとつになる。 「神谷に話さなきゃいけないこと、いっぱいある」 「……っ、う、ん」 「だから待ってた。あれから何回も窓の外眺めて、神谷がふらふら歩いてないか、いっつも探してた」 「……馬鹿すぎ……」 「うん。けど東京まで追いかけるのは怖くてできなかった。ごめん」  ……怖かった、なんて。  初めて、この人の心の内側を明かしてもらえている気がした。それが苦しいくらいに嬉しくて、少しも声を出せそうになくなる。  面倒。  そのひと言であれこれ片づけては、いろいろなものからひたすら逃げ続けてきた私たちは、今からでも取り戻すことができるだろうか。  全部聞きたい。全部伝えたい。私はそう思っている。  もしかしたら、君も一緒なのかもしれない。 「なにから話す? っていうか、今彼氏とかいたりしない?」  感動的な再会のはずが、間の抜けた問いかけが降ってくる。焦った声がおかしくて、つい噴き出してしまった。  首を軽く横に振って否定すると、ほっとした顔の神崎くんと目が合った。縋りつくように、私は彼の首元に腕を巻きつける。 「……ごめん。もうちょっとだけ、こうしててほしい……」  痛む喉から無理やり声を絞り出した途端、背中に回る腕の力が強まった。  応えるように、私もまた腕に力を込める。  そのとき、雲の切れ間から陽の光が覗いた。  西日が照らし出す雨の筋は、そのどれもがキラキラと輝いていた。鮮やかな光の線――夢の世界にでも迷い込んでしまったのではと錯覚するほどの。  その光を瞼の内側に焼きつけながら、私はそっと目を閉じた。
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