エピローグ

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エピローグ

 目を覚まして一番に、ずっと心で想っていた人の顔がそこにあって。  これ以上の幸せが一体どこにあるのだろうと、僕は素直に、そう思った。  監禁されていた教室で気を失ってから、僕は運ばれた先の病院で丸一日眠っていたらしい。  頭に負った怪我は幸いにも打撲と切り傷のみという軽傷で済み、眩暈の原因は過労によるものだったそうだ。木曜日の午後に目覚め、一通り検査を済ませると、金曜日の夕方には退院できた。  僕の病室には両親だけでなく、すずも学校に行っている間以外の時間はずっと付き添ってくれていた。彼女なりにどこか負い目があってのことらしいけれど、僕にとってはそんな些細なことはどうでもよくて、ただ純粋に彼女が部活よりも僕を優先してくれたことが嬉しかった。  すずから聞かされた話によれば、僕が監禁されていたのは北館四階の地学室だったそうだ。授業では使われない空き部屋で、米村先生がこっそり鍵を持ち出して利用したのだという。  米村先生の突然の逮捕および懲戒免職処分については、当然ながら学校全体に激震が走ったらしい。全校集会での詳細な説明は避けられたみたいだが、噂というのはどこからかあっという間に広がってしまうものだ。彼の罪も、僕とすずの関係も、すでに周知の事実なのだそうだ。  聡平からも連絡が入っていて、部活の都合でお見舞いに来られないことへの謝罪と、その代わりに日曜日に退院祝いを開くから予定をあけておけ、とのことだった。そんな大袈裟な、と思ったけれど、すずと弘海さんまで誘ってあるというからもはや断りようもない。恥ずかしさをぐっと堪えつつ、三人の厚意に甘えることにした。  そして、日曜日。四月十八日の午前十時。  校門を薄紅に彩っていた桜の木は、今はもうすっかりきらびやかな新緑に包まれていた。  日曜日に学校へ来るなんていつ以来だろう。去年の文化祭が最後だったのではないかと思うけれど、そうするとおよそ半年ぶりだ。  日曜日なのに制服をまとい、僕とすずは今、男子クラブハウスの二階、野球部の部室前に並んで立っている。壊れそうとまでは言わないけれど、それなりに年季の入ったプレハブの柵に両腕を乗せ、体重を預ける僕とすず。目の前に広がるグラウンドでは、野球部の練習試合が行われていた。  試合は現在三回裏、相手チームの攻撃中。マウンドに立つピッチャーはもちろん、天和高校野球部の絶対的エース・聡平だ。  キンッ!  金属バットが威勢のいい音を鳴らした。 「あっ」  僕は思わず声を上げる。聡平が背後を振り返った。バットを離れた打球は勢いよく二塁方向へと転がっていく。  セカンドを守るのは三年生だ。すべり込んでボールに飛びつき、二塁ベースへカバーに入ったショートの三年生へとそのままグラブトス。一塁ランナーをアウトにすると、ショートの選手は流れるようにファーストへと送球。 「アウトッ!」  一塁の塁審を務めていた一年生が、握った右手を高らかに掲げた。おぉ、と僕らは笑顔で拍手を贈っていた。  鮮やかなダブルプレー。目にも留まらぬ早業だった。 「一気にツーアウトだ!」  右隣で、すずが嬉しそうに声を上げた。「あとひとり」と僕も相槌を打つ。  退院祝いを開くから予定を入れるなと僕には言っておきながら、主催者である聡平は午前中だけとはいえ野球部の練習試合が入っていた。いかにも聡平らしいと言えばそのとおりなのだけれど、僕は律儀に一日フリーにしていたので正直時間を持て余していた。  そんな時、朝一番ですずから連絡が来た。「どうせなら、試合見に行こうよ」と。  公式戦でもないのに勝手に学校へ乗り込んでいっていいものかと不安に思ったけれど、すずは僕に連絡を入れる前からすでに野球部のマネージャーである弘海さんに話を通してくれていた。準備がいいというか、相変わらずのわがままというか。とはいえ、おかげで暇を潰せることになったので、これでよかったのだと思っておくことにした。  そういうわけで、現在僕らは絶賛野球観戦中だ。自分でスポーツに取り組むのは苦手だけれど、観戦ならば素直に楽しめる。すずもお父さんの影響でプロ野球中継をよく見るらしく、ルールはよく知っているようだった。  ツーアウト、ランナーなし。マウンドに立つ聡平の右腕から白球が放たれる。パシンッ、とキャッチャーミットがいい音を立てた。 「かっこいいよね、彼」  遠く聡平の背中を見つめながら、すずが唐突につぶやいた。 「理紀が監禁されてあたしたちの前から姿を消したあの時……彼、一瞬で米村先生の犯行だって見抜いてた。そこからほんの数分で君の監禁場所を特定してさ。びっくりした、なんて頭のいい子だろうって。理紀のことを本気で心配していて、すごく一生懸命で……理紀にはいい友達がいるんだなって、ちょっとうらやましくなっちゃった」  すずは静かに目を細くした。昔から……そう、昔からだ。彼女は思っていることが顔に出やすい。容姿端麗・頭脳明晰、(本人いわく)完全無欠の同級生・後藤聡平にすっかり魅了されているのがよくわかる。 「惚れたって無駄だよ」  僕はさらりと意地悪な一言を投げつけた。「へ?」とすずは僕を見る。 「聡平は弘海さんのことが好きだから」 「えっ!」  すずが目をまんまるにする姿が面白くて、僕はつい声に出して笑ってしまった。 「そ、そうなの!?」 「うん」  真面目な顔でうなずいてやると、「そっか」とすずは再びグラウンドへと目を向けた。 「和音ちゃん相手じゃ勝ち目がないな」  すっきりと澄んだ表情でそう言った彼女の姿に、今度は僕のほうが驚いて目を瞠った。 「…………本気で狙ってたの? 聡平のこと」 「まさか。そういうつもりで『かっこいい』って言ったんじゃない」  ニヤリと口角を上げ、すずはちらりと僕を見た。 「安心した?」 「…………っ」  意地悪の仕返しをされ、僕はサッと視線を逸らす。なぜだろう、頬が熱い。  パシンッ、とキャッチャーミットが豪快に鳴った。おもいきり空振りをするバッターに、小さくガッツポーズをする聡平。スリーアウト、チェンジ。 「おぉ、三者凡退!」  すずがパチパチと拍手を贈った。聡平はベンチへと戻りながら女房役であるキャッチャーの先輩――この人が野球部の主将だ――と嬉しそうにミットを重ね合わせている。試合は未だ0対0。そろそろ点がほしいところだ。 「いいよね、スポーツって」  すずが言った。 「見てみたかったな……米村先生がバスケしてるところ」  僕は眉を上げた。すずがどんな気持ちでそう言ったのか、すぐには理解しがたかった。  僕もこれまで、米村先生がバスケをする姿を見たことは一度もない。けれど想像すれば確かに、先生が鮮やかにシュートを決める様子はきらきらと輝いて脳裏に描かれる。  苦しかった過去、犯した過ち……そのすべてを忘れることができる瞬間が、先生にとってはバスケをしている時間だったのかもしれない。僕の前で見せた不格好な笑みではなく、心の底からこぼれ落ちる歪みのない笑顔を、先生にはもう一度取り戻してほしい。僕らの誰もが、そう心から願っている。そんな日が来ることを、僕らは待ち望んでいる。 「誘えばいいんじゃない?」  僕の提案に、すずは首を傾げながら僕を振り返った。 「先生が心を治して、罪を償ったらさ……みんなでバスケを教えてもらいに行こうよ」  すずは驚いたような顔をしていたけれど、ややあってから「そうだね」と言って笑った。  その綺麗な微笑みから、僕は目を逸らすことができなかった。  この五年間、彼女は今日みたいに穏やかな笑みを浮かべられていただろうか。  彼女が転校してきて、職員室の前ではじめて言葉を交わした時の、しんと冷え切った彼女の右手が忘れられない。生きた人間の手とは思えない、氷のような冷たさだった。  柵に乗せられている彼女の手に、僕はそっと手を重ねる。今はもう、あの日の冷たさを少しも感じない。穏やかな微笑みと同じ、心地よい温かさを帯びている。 「理紀?」  突然の僕の行動に、彼女はきょとんとした顔で僕を見た。僕は笑って、一言だけこう言った。 「よかった」  そう、これでよかったのだ。  僕が記憶を取り戻したことなんてどうでもいい。彼女が本来持つべき温かさを取り戻したこと、心から笑える瞬間を取り戻したこと……それが何よりも嬉しかった。  失ったものの中には、二度と取り戻すことの叶わないものがある。  けれど、もしも大切な何かを失った時、それを再びこの手に掴むことができるのなら。  その時はきっと、立ち止まっていてはいけないんだと思う。  たとえ傷だらけになったとしても、諦めずに立ち向かったその先には、失ってしまった大切なものを抱きしめている自分に出会えるはずだから。  この僕が、そうだったから。 「やぁやぁ、おふたりさん!」  その時、僕の左側から軽快な声が聞こえてきた。弘海さんだ。紺色のジャージに野球帽。マネージャー然とした彼女の姿を見るのは久しぶりだ。 「ありがとねぇ、応援に来てくれて。観客がいるってわかっちゃったもんだから、練習試合なのにみんな気合い入りまくりだよー」  はははっ、と楽しそうに笑った弘海さんの両手には紙コップが握られていた。はい、と僕らに一つずつそれを差し出してくる。受け取ると、コップの中身はお茶だった。 「ありがとう、わざわざ持ってきてくれたの?」  僕が問うと、弘海さんはなぜか僕の顔をじーっと見つめてきた。 「…………何」  思わず一歩後ずさる。右腕がすずの体にぶつかった。  真剣な表情をなおも崩さず、ものすごい目力で僕を見つめる弘海さんは、短く一言、こう言った。 「リッキーと目が合った」  思わぬ言葉が飛び出して、僕は思い切り虚をつかれた。 「…………へ?」 「はじめてリッキーとまっすぐ目が合った!」  僕は思わず右隣のすずを振り返ってしまった。すずも何事かと首を傾げている。 「ほら! リッキーってずっと女の子に苦手意識持ってたでしょ? しゃべりかけても口ごもってばっかりだったし、目がまともに合ったことなんて全然なかったじゃん!」  あぁ、と僕はまるで他人事のような声を上げた。  そういえばそうだ。僕は五年前からずっと女の子に対してうまく対応できずにいた。それが今ではこうしてすずとも弘海さんとも何のためらいも、怖い気持ちもなく話せている。 「あれ、なんでだろ……?」  いつからだろう。まるで無自覚だった。 「鈴子ちゃんのおかげだね、きっと」  にこやかに笑って、弘海さんはそう指摘した。けれど当の本人は眉間に深々としわを刻んでいる。 「あたし、何もしてない」 「鈍いなぁ、鈴子ちゃん。何かするとかしないとか、そういう問題じゃないんですよ」  チッチッチ、と弘海さんは意味ありげに右の人差し指を振ってみせた。相変わらず、この子は妙にハイテンションだ。 「じゃあ私、そろそろ戻るね。部活終わったらまずごはん食べに行きたいから、ふたりでお店決めといてー!」  さりげなく僕らに仕事を押しつけながら、弘海さんは「じゃあねー」と手を振りながら去って行った。なぜだろう、彼女のいなくなったあとはいつも嵐のあとの静けさだ。 「ねぇ、理紀」  すずが先に声を上げた。 「ん?」 「女の子、苦手だったの?」 「うん、苦手だった。……いや、苦手なんだと思ってた、って言ったほうが正しいかも。記憶を取り戻したら、全然苦手だとは感じなくなったし」 「……変なの」 「はっきり言うなぁ」  渋い顔を突き合わせて、やがて僕らは、くすくすと声を立てて笑った。  キンッ、と金属バットの音が響いた。相手ピッチャーの頭上を越え、打球はセンター前に落ちた。ワンベースヒット。 「やった!」  すずが嬉しそうに声を上げた。次のバッターは聡平だ。  ヘルメットのつばに手をかけ、小さく頭を下げてからバッターボックスに入る。ピッチャーとしてももちろんすごいけれど、聡平はバッターとしても期待できる選手だ。 「打つかな?」  すずが言った。その目はきらきらと輝いている。  すずが聡平に見惚れる気持ちはよくわかる。僕はこの五年間、かっこいい彼の姿をずっと間近で見てきたのだから。  聡平は僕の親友だ。大手を振って自慢できる、唯一無二の大親友。  そして彼こそ、僕とすずの今をつないでくれた人。聡平がいなければ、僕らは互いに過去に囚われ、すれ違ったままだった。 「打つよ」  僕は答えた。彼の力を、僕は誰よりも信じている。  一球、また一球とボールを見送る聡平。投げ込まれる球筋を慎重に見極めている。  そして、五球目。  キンッ!  気持ちいいほどの快音がグラウンドに響き渡った。  一塁ベースに向かって走り出した聡平に、僕らはワッと歓声を上げる。  聡平が勢いよく飛ばした打球は、レフトの守備についていた選手の頭上を軽々と越えていった。  ほの暗い過去を切り裂いて、色鮮やかな未来へと、僕らを(いざな)ってくれるかのように。 【君の記憶を消せたなら/了】
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