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景由は、俺と目の前の女とを見比べた。そして、すぐに大きく頭を下げてきた。
「も、申し訳ない……あの人が、そんなことを……」
図星だからか、女も反論せずに黙り込んでいた。この女の主人については実は誰も何も言っていないのに言い当てたから、余計に驚かせたのだろう。
そして景由も、その人物の存在をほのめかしただけでこの有様だ。
そう。この愚かな拐し未遂は景由が行ったものではない。それは確かのようだ。背後にいるのは、もっと厄介で陰湿な人物なのだ。
黙ってこの場を飛び出してやりたいところだったが……だが、このままにもしてはおかけない。今後の為にも。
「景由殿、謝る相手を間違えてはいませんか?」
「え?」
「今日、俺がついてこなければ藍は連れ去られるところでしたよ。あなたは……きっと指をくわえて見ているしかできなかったことでしょう。そんなことになれば、あなたは優子殿にどう顔向けするつもりだったのですか? 一度彼女から料理人としての人生を奪っておいて、この上さらに娘まで奪うなど……許される所業ではない!」
「そ、それは……」
景由は、狼狽えるばかりで弁明も反論もできずにいる。これが、この男の優しい点でありそして……欠点だ。
「しっかりしなさい。この場に藍を呼んだのなら、本来ならあなたが藍を守らねばならないはずだ。でなければ、優子殿があまりにも……不憫でならない。そうでしょう」
「治朗くん……」
人の生きざまに口を挟むべきではない。理解しているつもりだが……言わずにはおれなかった。誰あろう、藍の為だ。
「……あと一つ。あなた方には理解できないだろうが、俺は優子殿の命に従ってここにいるのではない。あなた方のはかり知る事の出来ぬ偉大な方の命を受けて、藍の傍にいるのだ。金だの権力だの血筋だの……そんな些末な事情で、俺のことを抑え込めると思わないでいただきたい」
「……え?」
「要は、あなた方がどんな手段を行使しようと、俺はただ、藍を守るのみ。そういうことです」
さすがに最後の言葉は理解の範疇を越えていたのか、景由も女も唖然としていた。
俺は、そんな二人を置いて、さっさと店を後にした。
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