04.120年前の始まり

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04.120年前の始まり

 彼女のことは館長が呼び出したらしかった。どういう連絡手段を用いたのかは知らないほうがいいだろう。知ったら今以上に面倒事に巻き込まれる。そう俺の勘が告げていた。   彼女は入った時から館長室を見渡している。先ほどの表情とは打って変わって、とても静かな表情だった。まるで美術館で絵を鑑賞しているかのようだ。 「久しぶりに入ったわ、ここに」 「そうでしたか、どれだけ見てもよろしいですよといいたいところですが、その前にこちらを差し上げたいのですよ」 「なあに?」 「こちらです」  館長がそう言って取りだしたのは、古ぼけた日記帳だった。彼女は少し目を見張るが、すぐにそれを手に取り、パラパラとめくった。  それは触れれば崩れそうだったが、彼女が触れても形を崩すことはなく、むしろ彼女の手が触れた場所から新しくなっていくようだった。 「治しておいたわ」 「……これが稀覯本狂≪リブリアース≫の能力ですか」 「そろそろ失礼したいのですが」 「待って」  俺が部外者のような雰囲気になり、やっと用済みだと安堵し退室しようとすると、彼女から声を掛けられる。俺はそれを意外に思った。  いったい何の用だ? いや、彼女が用があるとすれば俺じゃない、俺の”中身”だ。彼女の目が殊更に輝くのを見て、それがよく分かった。 「どうすれば貴方を食べさせてくれるの?」 「おい、待てその話は」 「……人間から摂取を考えているほど、貴方たちは困窮しているのですか。予想はしていましたが、状況は厳しいようですね、そんな状態で貴女が人間の姿をしていることの方が驚きです」  俺は昨晩と同じようなことが、目撃者がいるこの場所で始まりそうなことに焦るが、館長が着目したのは別のことだった。 「……はっきり言って飢えてるの。彼から香る知識がわたしの理性を奪うのよ、知識の徒≪ライブラリアン≫である私たちから理性を奪う人間なんて、中々いないわ。本当、殺さないのに苦労したんだから」  彼女の白銀の目が忙しなく渦を巻いていた。 「そこまで貴女が本能で欲するものは何ですか?」 「この国の軍事機密よ、彼の家は代々軍人を輩出する家柄なんですってね?」「……なるほど、それは貴方たちにとっては、喉から出るほど欲しい物でしょう」  館長が得心言ったかのように、それでいて苦渋に満ちた顔でそう言葉を絞り出した。 「そろそろ本題に入りましょうか? ごめんなさい、久しぶりの知識の匂いが充満した場所に来たものだから、ここにある知識を吸収しないでいることが辛いの。今やっとこの空間になれてきて理性が働きそうよ」 「……だったら余計に俺が出たほうが」  俺は座っていた椅子から立つ。昨晩いや、今でも彼女がこれでも理性を働かせているという事実を知り、俺は当惑した。彼女にはじめて会った時のあの言動が本能からだとしたら、銀色の目の輝きが彼女の理性の発露なのだろうか? 「それに言っておくが、俺は軍事機密なんて知らないぞ、俺の家族が職業柄知っているだけだ」 「人間というのはね、脳から情報を取りだすのに苦労するだけで、今まであったことは全て記憶しているものなの。だからタレス、貴方が見たもの聞いたものは全部貴方の頭の中にあるのよ。それにあなたが退室したら貴方の持っているものがどこにあるか気になって話どころじゃないわ、今だって私以外の誰かの奪われるかもって思うと辛いのに」  得意げに怪しく彼女は微笑み、俺にそう教えてくれる。もうここから去って何気ない日常に戻ることは出来なさそうだ。俺は覚悟を決めた。 「何が何だかわからないと思うが、君もここにいてくれ。お客人がそれを望んでいるからね」 「はい」  俺は内心嫌だと思いながらも腹をくくり、椅子に座りなおした。 「どうして私をここに呼んだの?」 「貴女もご存じでしょう。この120年の図書館の現状を」 「……噂ぐらいでは」 「貴方たちの居ない図書館では、本来の情報提供の場としての能力を欠きつつあります。国におもねて情報提供をするために、事実がゆがめられている」「……」  彼女の表情はまるで彫刻のように動かなかった。 「図書館は公平な機関であるべきです、しかしそろそろ本格的にこの図書館にも国の手が伸びそうです。しかし私が勤める場所は幸いにもイージス図書館です。保存修復専門の図書館だ」 「出版物の保存修復をすることで、事実がこれ以上歪むのを防ぎたいってことかしら?」 「そうです。それには完全に知識をため込むことが出来る、貴方たちの力を必要です。まさか貴方たちがまだこの国にいらっしゃるとは思いませんでした。歴代館長が貴方たちの所在を探していました。けれど知識を扱う皆さんは情報を消す方法をよく御存じだ。昨日まで全く足取りがつかめなかった。昨日貴方たちの情報がもたらされた私の気持ちが分かりますか、天の配剤かと思いました」  館長が徐々に興奮していくのが分かった。彼らが現れることを待望していたことが俺にもよく分かる。そんな言葉だった。しかしその声に反比例して、彼女の声が凍てついていくような気がした。 「……衣食住を保証してくれるのなら、いいわ。でもいいの? わたしたちを匿うのなら、国に盾突くことになるのよ?」 「ここはイージス図書館ですよ、本来の用途に戻るだけです」 「ここは知識の女神の図書館とでもいいたいの?」  彼女が鼻で笑った。  「わたしに言わせればもうこの国に図書館はないわ。ここには一つの意思しか詰まっていないもの、権力者に染まったものだけが存在を許されるの」 「それを本来の姿に戻すためにも貴方たちの力が必要なのです。それに貴女がここにいらっしゃるということは、この国を見捨てていないからでは?」 「それって都合のいい考え方ね、わたしたちが文字通り知識を貪るもの≪フラジャーゼ≫になってしまうとは思わないの? ここに来たのもここの知識を食べつくすつもりだったとは思わないわけ?」  彼女の目が白銀から灰色がかった銀になっていくのが分かった。彼女の目が文字通り明滅している。怒りで感情が揺れているのがよく分かった。 「ここの知識が貴方たちの手に落ちるなら、それほどに幸せなことはないでしょう」  彼女の目の色が白銀に戻っていく。 「そこまで言い張るのなら、協力してあげる。でも私たちの改革は性急よ? 貴方が国に洗脳される兆候が見られたら、すぐに私たちがここの知識を貪るわ」 「そうですか、それなら安心です」  不敵な笑みを二人が交わしているのを見て、俺は背筋に震えが走った。
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