4話

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4話

 放課後、健優が小珠の教室にやって来たのは、放課のチャイムが鳴ってから僅か数分後の事だった。  どうせ女子達に呼び出されてすぐには来れないだろうと思っていた小珠は、あまりにも早い主役の登場に目を丸める。 「放課後は女子からの呼び出しはなかったのか?」 「お腹痛いから急いでるんだ、ごめん、って言って来た」 「ははっ、何だそれ」  子供のような嘘に、思わず笑いが込み上げる。  そんな小珠につられて、健優も口元を綻ばせた。  一階にある靴箱に向かうまでと、校門を出た後も健優は次から次に女子達に声を掛けられたが、彼女達に対しても、お腹が痛いから、というあからさまな嘘で切り抜けていた。  彼女達も嘘だという事に気付いてはいるのだろうが、それ以上食い下がってくる事は無かった。  可愛らしい見た目とは裏腹に熊や猪のごとく凶暴な本性を隠し持っている女子達も、紳士的で王子様のような健優の前では純粋無垢で慎ましやかなプリンセスを見事に演じている。  それから、小珠と健優がようやく落ち着いて世間話を楽しめるようになったのは、学校から大分離れてからの事だった。  小珠は背負っていたリュックを下ろして胸に抱きながら歩き、教科書やプリントと一緒に押し込んだ預かり物のチョコレートの存在を何度も確認する。  なかなか、取り出すタイミングが掴めない。  自分で用意した物では無いとは言え、バレンタインデーの日に、男が男にチョコレートを渡すというのはすこぶる気恥しい。  ましてやその瞬間を同じ学校の生徒に見られ、あらぬ噂を立てられてしまったらと思うと……。  噂の恐ろしさを、小珠は身を持って知っている。  慎重に、人目の無い瞬間を何度も狙うが、駅へと向かう道には常に人の姿がある。  それどころか駅へ近付く程に通行人の数は増えていき、このままではとてもチャンスが巡ってくるとは思えなかった。 「……ちょっと、どっか寄っていきたいんだけど」  間も無く駅が見えてくるというタイミングで、小珠が意を決して切り出す。 「どっかって?」 「ん、んー……、どこでも良いけど、あんまり人目の無い場所。明日休みだし、寄り道しても良いだろ」 「良いよ」  健優から快諾の言葉が返って来て、静かに胸を撫で下ろす。 「人目の無い場所が良いなら、久しぶりに漫喫とかは?」  どこが良いかと思案を巡らせていると、健優が先に行先を提案してきた。  駅近くに漫画喫茶があって、何度か二人で利用した事がある。  完全防音のファミリールームやカラオケルームがあり、人目を避けたいという目的の為には実に打って付けの場所だ。  絶好の提案をしてくれた健優に小珠が思わず礼を言うと、健優は何故礼を言われたのか理解出来ない様子で笑いながら首を傾げた。  人通りの多い駅近くという最高の立地で商売をしている漫画喫茶は、社会人や学生の帰宅が重なるこの時間にはほぼ満席に近い状態だった。  健優と小珠が店に着いた時にはいくつかあるファミリールームもカラオケルームも全て埋まっていたが、二人と入れ替わるように、ファミリールームを使用していた内の一組が会計にやって来たのは運が良かった。  まるで神様が、早く渡してしまいなさい、と、後押ししているかのようだ。  受付で指定された番号の掲げてある個室に入り、扉を閉める。  カラオケルーム程の防音性とはいかずとも、店内で流れている有線や他の客達の話し声が大分遠くの方へと追いやられた。  四畳半程の畳敷きの部屋には大きめのテレビと最新式のパソコン、それから、テーブルがひとつと、それに寄り添うようにふたつの座椅子や座布団が置かれていた。  小珠がリュックを下ろして座椅子に座れば、健優も同じように荷物を置いて小珠の隣に腰掛けた。 「何か今日は疲れた」  健優はあぐらをかいて座るや否や、大きな溜め息を吐いて小珠の肩に頭をもたせかける。  至近距離に健優の顔がある事が落ち着かなくて、やんわりと距離を離そうとしてみたが、がっちりと腕を掴まれていてぴくりとも動けなかった。  それどころか、健優の体重がじわじわと自分の方にもたれかかって来て押し潰されそうになる。 「重いっ!」 「うーん……」 「うーん、じゃなくて!」  自分の方へと迫ってくる体を力任せに押し退けると、健優は少し寂しそうに体を起こした。 「小珠、何かジュース飲む? 持ってくるけど」 「あぁ……、いや、待って。その前に」  すぐ近くに置いておいたリュックを引き寄せ、中を探る。面倒事は早く済ませたい。  中から何が出てくるのか知りもしない健優は、黙って小珠の動きを見つめていた。 「……これ、バレンタインのチョコレート。うちのおかんから」  リュックの中で他の荷物に挟まれて少し皺の入ってしまった紙袋を、健優の目の前に差し出す。  この数時間で色々と考えた作戦の中で、これが一番成功率が高いと小珠は判断した。  小珠がそうであるように、小珠の母親もまた健優の事がお気に入りだった。  健優が遊びに来た日の食卓はまるでパーティーのような豪華さで、普段ならば絶対に出さないような高級茶菓子が惜しみも無く運ばれて来る。  そんな小珠の母親は、毎年健優の誕生日や、バレンタインデー、果てはクリスマスにもプレゼントを用意しているような生粋の健優推しだ。  そして、健優がそれらを受け取らなかった事は無かった。  これが小珠の母親からだと言っても恐らく健優は何も疑わないし、受け取れないなどとも言わないはずなのだ。  そんな小珠の思惑通り、健優はその紙袋を手に取った。 「有難う。いつも悪いなぁ、後でおばさんにお礼の電話しとくから」 「えっ!? い、いや、お礼とか良いって! うちのおかんが好きでやってんだから!」 「でも、これ高いやつだろ?」  健優がそう言って、綺麗にラッピングされたチョコレートの箱を紙袋の中から取り出した時、名刺サイズの紙がひらりと舞い落ちた。  それを拾い上げた健優が、紙面を見た瞬間に目を見開く。 「……小珠、これ、何?」 「えっ……」  健優にその紙を渡され、小珠は恐る恐る受け取る。  メッセージカードと思われる赤い紙には箔押しのゴージャスな薔薇が数ヶ所印刷されており、その紙の真ん中には、しおらしい文字で“好きです、付き合って下さい”と書かれていた。  金属バットで思い切り殴られたかのような激しい動揺が、小珠の思考をぐちゃぐちゃに掻き回す。 「えっ、えっと……、はは、何だろな……?」 「……これ、本当におばさんから?」 「う……、んん……」  疑心に満ちた瞳を向けられ、小珠はたまらずに俯く。  こんな物が入っているなんて、聞いていない。  このチョコレートを用意した彼女がメッセージカードの存在を言い忘れていたのか、それとも敢えて言わなかったのかは分からないが、この紙切れのせいで小珠の計画は破綻してしまった。  確認しなかった自分も悪いのかもしれないが、普通、他人の為に用意されたプレゼントを物色なんてしないだろう。  小珠はメッセージカードを両手で握り締めたまま顔を上げる事が出来ない。  このままでは自分の母親が、息子の友人を不倫に誘うふしだらな女だと思われてしまう。  かと言って正直に話せば受け取っては貰えないだろうし。  何より、こんな嘘を吐いたと知られる事が、騙そうとしたのを知られる事が恐ろしかった。  健優はきっと悲しそうな顔をするだろう。怒るかもしれない。  健優の顔ならどんな表情でも好きだが、そうだとしても辛そうな顔はあまり見たいとは思わない。  それに、幻滅され嫌われてしまうのは嫌だ。  今更になって罪悪感が吹き出して来て、ネガティブな方向に流れていく思考を止められない。  混乱してほとんど使い物にならなくなった頭に唯一浮かんだ打開策はとてもお粗末なものだったが、その是非を判断する前に小珠は口を開いてしまった。 「じ、実は……! 本当は俺からのチョコレートでしたっ!」 「えっ」 「いや、ははっ、ほら、日頃の感謝の気持ちって言うか!?」  自分の口から出ている言葉なのに、何を喋っているのか分からない。  健優が“小珠から貰える物なら何でも嬉しい”と言っていた事を思い出して、もうそれしかないと思った。  健優にとって、小珠の母親からだと思っていたプレゼントが実は全く興味のない女子からだったというのは腹が立つ事だろうが、実は小珠からだった、と言うのであれば話は変わるはずなのだ。  自惚れているのではとも思うが、子供の頃から健優に懐かれていた小珠にはある程度の確信もあった。  健優はチョコレートを持ったまま、呆然と小珠を見つめている。 「お、驚いただろ! でっ、そのカードは実はドッキリ的な……」 「……有難う」  今度は、小珠が目を丸める番だった。  健優は手の甲を目元に押し付けると、すん、と鼻を鳴らす。  嬉しい、と呟いたその声は少し震えていたような気がして、胸が締め付けられた。  健優は毎年バレンタインデーがやって来る度に「小珠から欲しい」と言っていたのだが、今まで適当に受け流していた。  チョコレートひとつでここまで感激されるのならば、もっと早くにあげておけば良かった。  小珠は健優に誰よりも懐かれている自覚はあったが、ここまでとは思いもしていなかったのだ。  まるでタイミングを見計らったように、テレビからは青春学園ドラマの感動的な主題歌が流れて来た。  小珠は珍しく、自ら健優の体に触れる。  バンバンッと背中を叩くその動作は、触れると表現するにはあまりに乱暴ではあったが。  何だかより一層友情が深まった気がして、小珠の方も感極まってしまいそうだった。 「馬鹿っ、泣くなよっ、こっちこそいつも有難うな……!」 「…………、キス、して良い?」 「……ん、う? う、ん?」  何だか物凄い聞き間違いをしてしまったみたいだ。  もう一度言ってくれないだろうか。  そんな意味を込めて聞き返したつもりだったが、了承の言葉と捉えられてしまったのか、健優は少し潤んだ瞳を真っ直ぐに小珠の方へと向ける。  まるで水面に反射した宝石のようだと見蕩れていると、健優の顔があっという間に目前へと迫り、何の躊躇いも無く唇を合わされた。  自分が崇拝しているあの顔だと認識出来ない程近くに健優の顔があって、唇が離れてようやく、その美しい輪郭を捉える事が出来た。  そこまで時間が経ってやっと、健優にキスをされたのだという状況を小珠は飲み込んだ。  あの、計算されたかのように形良く柔らかそうな唇が、自分の唇に触れたのだと。 「……….」 「えっ、わっ、小珠、鼻血が……っ!」  鼻の下を生暖かい何かがゆっくりと這い落ちて行った直後、硬直した小珠の体は勢い良く後方へと倒れ込んだ。
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