月夜の晩に空を渡るもの

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その女は、全裸でこの寒空の下、佇んでいた。 夜中、山の中の細い農道を車を走らせていた男は、突然目の前に現れたその女に驚き、急ブレーキを踏んだのだ。男の脳裏に浮かんだのは、拉致、レイプ。 男は悩んだ。この女を助けたい気持ちはあるが、これではまるで自分が犯人扱いされるのではないかと。 見て見ぬフリをしようと思った。 しかし、通り過ぎた瞬間、女が悲しそうにこちらを見たので、男は思いとどまった。車を止め、女に近づいた。 「どうしたんですか?何があったんです?」 そう言いながら、とりあえず目のやり場に困るので、自分のコートを女に着せた。 「わからないんです。」 女はそう一言呟き、下を向いた。 記憶喪失なのだろうか。 「思い出せないの?」 「ええ。」 かわいそうに。記憶をなくすほど酷い目に遭ったのだろう。 「とりあえず、乗って。俺は何もしないから。」 女は素直に車に乗り込んで来た。 「名前とか、住所も、何も思い出せないの?」 「ええ、何も。」 正直、やっかいなことになったと思った。 女はなかなか好みのタイプではあるが、厄介ごとはゴメンだ。 男は、すぐに交番まで車を走らせた。 しかし、夜中の交番というものは、誰も居ないものだ。 しかも、コートの下は、全裸の女。これはどう考えても、自分にとって分が悪い。 「とりあえず、今日は俺の部屋に泊まる?その格好じゃあ、俺も交番に行くのは困るし。」 「すみません。」 女は何も思い出せない自分が歯がゆいように唇をかみ締めた。 その仕草が何とも痛々しかった。 女性用の下着はもちろん持ち合わせていないので、とりあえず男は、自分のスウェットの上下を女に貸し与えた。サイズはぶかぶかで合っていないけど、裸よりはマシだ。 「おなか、空いていない?」 女に聞くと、首を横に振った。 まあ、酷い目に遭ったのなら、それどころじゃあないか。ショックで食物も喉を通らないだろう。 「布団、一つしかないから。悪いけど、コタツで寝てくれる?」 女は頷いた。 「明日になったら、警察に行こう。君の捜索願が出てるかもしれない。」 ところが、警察に行っても、女の捜索願は出ていなかった。 いろんな可能性を考えて、かなりの範囲の警察を訪ねて回ったが、この女の特徴に似通ったような捜索願は出ていないのだ。男は途方にくれた。 いくらなんでも、見ず知らずの女を、いつまでも家に置いておくわけにはいかない。 それかと言って、この寒空の下、女を追い出すわけにもいかない。 そして、女は不思議な女だった。 男がいくら食事をすすめても、決して食べようとしないのだ。 体に悪いから食べるように勧めても、決して食べない。 食べられないというのだ。それでも、女は衰弱する様子はなく、健康は損ねていないようだった。 ただ、水だけは摂取しているようだ。なので、男には何も負担はなかった。 まるで、食わずの嫁だな。 男は、自分の頭に「嫁」という言葉が浮かんだことに驚き、自虐的に笑った。 いくら好みだからって、性急過ぎるだろう。女は、自分をどう思っているかもわからないのに。 男は最初こそは、女の身元をつきとめようと、東奔西走したが、まったく手がかりが掴めないまま、諦めてしまった。諦めたというよりは、女の居る生活が楽しくなり、手放したくないと思い始めていたのだ。 月夜の晩に出合った女を男は月子と呼ぶことにした。 月子は、相変わらず飯を食わず、それでも何事も無く暮らしている。 薄々、男は、月子が人間ではないことを気付いていたのかもしれない。 それでも、恐ろしいとは思わなかった。 月子は、抜けるような肌の白さと、その容姿の美しさで、男を虜にしていたのだ。 そして、男はついに我慢ができずに、月子の肌に触れた。 ヌルリ。 男はその感触に驚いて、手を引いた。 すると、月子は悲しそうな目で、男を見た。 「そろそろ、私は、主様の下へ帰らなければなりません。」 「月子、どういうこと?」 「私の体は、満月の晩に空を渡ります。」 言っていることがわからないよ。 「騙しててごめんなさい。私は、未来から来ました。」 「未来?」 「お気づきとは思いますが、私は人ではありません。」 そうだよ。知っている。でも、俺には月子が必要不可欠。 「私の体はもうすぐ気化します。私の体は水でできていて、分子レベルに分解します。」 「そんなこと、信じられないよ。俺は、月子の居ない生活など、もう考えられないんだよ?」 月子の頬を、涙が伝う。 「私はあなたの前から姿を消します。」 「そんなことを言わないでくれよ、月子。絶対に君を離したくない。」 「ダメなんです。そうしないと、私は、あなたを取り込んでしまうから。未来、人は、なめくじから人の姿をした物を作りました。そう、私の本来の姿はなめくじです。気持ち悪いでしょう?私のいる未来は、人となめくじの細胞から作られたダミーが共存しています」 彼女の話はにわかには信じられない話だった。 「何のために作られたかというと、所謂なぐさみ物です。だから、ダミーのほとんどは、女性です。性犯罪の増加から、国策としてダミーの製造が許可されたのです。倫理上の議論もありましたが、私達ダミーは人ではないので、問題なしとされました。ところが、ごくまれに、人格を持つダミーが現れるようになったのです。それは、人の愛着が強ければ強いほど、その傾向は顕著でした。そして、私も。」 そこまで、一気に話すと、また月子は涙をこぼした。 「ずっと一緒に居よう。」 男はヌルリとした、月子の手を握ろうとすると、月子は慌てて手を引いた。 「ダメなんです。蒸発の時期が来れば、私はきっとあなたを取り込んで、一緒に気化してしまうことでしょう。その現象が元で、私達ダミーの製造は中止されてしまったのです。しかし、私達の原始である、主様が密かにどこかの森で生き延びていて、そこへ空を渡り帰ることで、また私達は生み出されて行くのです。私が生み出される時、どこかの時空の歪に生み出されてしまい、恐らく過去へと飛ばされてしまったのでしょう。」 「そんな話は信じない。月子、行かないで。」 男は月子を抱きしめた。 「ダメ!離して!」 月子がいくら叫んでも、男は月子を離さなかった。 月子と男の姿が、眩しい光に包まれた。 体が解けていく。溶け合って行く。 月夜の晩を無数の水が渡って行く。 空は随分と水分を含み、やがて小さな霧雨となって行く。 土を濡らす。葉を濡らす。 そして、また月が空に上る頃。 無数のなめくじが、地を這い、草を這う。
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