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「カップも温めた方がよかった?」 「家だし、そこまでしなくてもいいんじゃないか。茶葉はアールグレイしかなかった」 「十分だよ」  いつもと変わらない、気の置けないやりとり。だけど空気は全然違った。微細な電気でも流されているように、肌がピリピリする。  準備が整うと、ソファーではなくラグの上に隣り合わせで座った。梨一は見た目も爽やかなレモンタルト、航は生クリームが溢れんばかりのパイシューを選び、いただきますと手を合わせる。  さっくりと焼けた香ばしいタルトに、甘酸っぱいレモンの風味がマッチしていてとても美味しい。ほんの少しだけ効かせた洋酒がいいアクセントになっていた。 「有名店だけあってさすがに美味いな。お前も食う?」 「ああ」  いつもの調子で訊ねたら、航がパカリと口を開ける。まさか幼なじみからアーンを強制されるとは思わなかった。頬を引き攣らせて固まっていると、航がフォークを持った梨一の手を掴み、口の中にぽいとケーキを放り込んだ。 「う、美味いだろ?」 「梨一が作るカスタードシュークリームの方が美味い」 「……お前、味覚が変だよ」  恥ずかしい事をさらりと言ってのけ、航は梨一の手から皿とフォークを取り上げて、テーブルの上に置いてしまう。こちらの戸惑いなどお構いなしで、そのまま強引に腰を抱き寄せられた。 「うわっ」 「お前は少し腹が出たんじゃないのか? 前に触った時よりぷにぷにしてる」  耳元で囁きながら、シャツの上から柔らかな肉を摘まんでくる。くだらないじゃれあいのはずが、大きな手のひらで撫でられると、背筋がぞわぞわした。 「さ、触ったとか言うな! 勝手に腹の肉を掴むなよ!」 「ベルトに腹が載ってる。普通なら見苦しいだけなのに、お前だとかわいく見えるから不思議だ」 「目も変だ、すぐに眼科行け……おい、航っ!」  航がシャツの裾を引っ張り出し、直に肌に触れてくる。耳にかかる吐息が熱い。航が興奮しているのは明らかだった。 「お前な、いくら童貞だからっていろいろすっ飛ばし過ぎなんだよ! いきなりがっついて触ってくんな! もっとムードとか考えろ!」  真っ赤になって抗議すると、不埒な手がピタッと動きを止めた。向き合う形に座り直し、梨一の正面で胡坐をかく。 「梨一、先に言っておく。誤解してくれてたようだけど、俺は童貞じゃない」 「――は?」  突然のカミングアウトに、梨一は瞬きを繰り返した。 「当然キスも初めてじゃない。お前と離れている間、女とも男ともそれなりに経験した」 「それなりにって……」  女とも男ともそれなりに。  それなりにというのがどれほどの数を指すのか、想像するのも怖かった。女の子とつき合った事があるくらいで、先輩風を吹かしていた過去の自分を、土中に埋めてしまいたい。 「なんだよそれ、お前、不純だ……っ」 「本当に好きな相手とはできないんだから仕方ないだろう? 一生センズリこいて生きて行けって言うのか?」 「生きて行けよ! 女の子はともかく男ともって、そんなの完璧裏切りじゃねーか! お前は俺の事が好きなんじゃねーのかよ!」  信じられない。無口で初心な朴念仁だと思っていた幼なじみが、知らない間にどこかの誰かを相手にそれなりの経験を積んでいたなんて。  怒りに任せて言い返したら、思いがけないほど強い力で襟足を掴まれた。 「痛っ」 「二十八年だぞ? 二十八年、お前は俺の中で生きてる。どこにいても誰といてもお前の声が聞こえてくる。ケーキみたいに甘い髪の匂いがする。片時も頭から離れてくれない。それでどうやってお前を裏切れるっていうんだ?」  ゆっくりと首を引き寄せられ、唇が触れる寸前の距離で止まる。穏やかなこの男のものとも思えない、乱暴な仕草。近過ぎる位置にある黒い瞳が、情欲を湛えて揺らいでいた。 「航……?」 「お前が作ったものを口にしながら、この唇は一体どんな味がするんだろうって、いつも考えてた」  舌先で、上唇を舐められる。されるがままになっていると、今度はぬっと奥まで押し入ってきた。 「んっ……」  襟足を掴んでいた手に力がこもり、唇がピッタリと合わさる。潜り込んできた舌先をちろりと舐め返したら、角度を変えて深く貪られた。  項を指でなぞられながら、上顎や舌の裏側までねっとりと舐られる。水音が漏れ聞こえるほどきつく吸われ、霞みがかかったように頭の中がぼんやりしてきた。  こんないやらしいキスをするヤツが童貞なはずはないのに、どうしてあの時そう思ってしまったんだろう。もしかしたら、そうだといいのにという、身勝手な願望だったのかもしれない。 「……ムッツリだったんだな、お前」  キスの合間に訊ねると、航が婀娜っぽく笑った。いつもは少しかさついている唇が、唾液でしっとりと濡れていて艶めかしい。 「それで……俺の唇は何味だった?」 「紅茶と、レモンタルトの味」  大真面目に返され、思わず笑ってしまう。いやらしいキスを知っていても、こういうところはやっぱり航だ。 「――より、ずっと甘かった。甘い菓子なんて食い慣れてるはずなのにな」  もっとと言うように鼻先同士を擦りつけられ、今度は自分から唇を押し当てた。唇の感触は男も女もそれほど変わらない。なのにかつてつき合ってきた女の子たちとは、何かが明らかに違った。  唇にがぶりと嚙みつかれ、ああこれだと思った。このまま食い荒らされてしまうんじゃないかという、微かな恐怖。いっそ何もかも奪って欲しいという、自棄にも似た焦燥感。  厚い舌に口の中を犯されながら、梨一はうっとりと目を閉じる。あまりの気持ちよさに、このままずっとこうしていたいと思った。
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