書籍一部未収録*番外編 / あの日の落涙雨

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書籍一部未収録*番外編 / あの日の落涙雨

 小学二年生の頃、祖父が亡くなった。私が檸檬喫茶に引き取られる一年前のことだった。  当時は幼かったので覚えていることは僅かだけれど、梅雨が終わる頃に行われたお葬式でのことは覚えている。  あやかしが視える私とは違って、妖力がない弟を両親は祖父母の家にあまり近づけたくなかったらしい。当時習わせていたサッカーが忙しいと言って弟や両親がお盆休みに祖父母の家に来ることはなかった。私だけが駅まで送られて、おじいちゃんに迎えに来てもらっていた。  幼い頃の私はあやかしが怖かったけれど、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くのは好きだった。  明るくてよく笑うおじいちゃんと、優しいおばあちゃん。なにより私に話しかけてくれることが嬉しくて、ここにいれば自分を受けいれてもらえると幼いながらに感じていたのだ。  家では母は私と口を聞いてくれず、弟は母から私とは話すなと言われていたようだった。  父は少し困ったような表情で腫れ物を扱うように接してくる。話すたびに胸がチクチクとして居心地が悪くて、自分の存在が困らせていると痛感した。  だからこそ、祖父母の家が好きだった。  おじいちゃんが亡くなった時は信じられなくて、夢でも見ているのではないかと涙すら出てこなかった。そして、お母さんもお父さんも、弟もお葬式で涙を流さなかった。  弟はおじいちゃんの存在すら覚えているのか怪しいくらい会っていないだろう。 「何時くらいに終わるのかしら」 「あまり大きな声でそういうこと言うなよ。我慢してくれ」  お母さんとお父さんの会話は私の心にトゲのように刺さってくる。どうしてこんなにときに時間なんて気にするのだろう。 「お母さん、トイレ行ってくる」  弟はそう言って立ち上がると、ゲーム機を片手に消えていく。  おじいちゃんが亡くなったのに。早く終わることを望んでいるように時間を気にして、自分の時間ばかりに捕らわれている。  息苦しくて、耳を塞いでしまいたくなる。  おばあちゃんは親族に挨拶をして動き回っていて忙しそうで、私は声をかけることができなかった。  嗅ぎ慣れないお線香の匂い。笑ったまま動かない写真の中のおじいちゃん。黒い服を着た人たちが俯きがちに何かを話している。  ——おじいちゃん。  心の中で呼んでみても、もう明るい声で「べに」と呼んでくれるおじいちゃんはいない。  私は両親の傍にいたくなくて、逃げるように外に出た。おばあちゃんの近くにも行けず、雨が降りしきる葬儀場の外をぼんやりと眺めていた。  激しい雨音が耳を支配する。空は泣いているように雨を降らしているのに、お葬式では親族の人は誰も泣いていない。  それがとても無情のように思えて、その中のひとりに自分も含まれているのだと思うと、胃のあたりが不快感で満ちていく。  大好きだったはずなのに。いなくなって寂しいのに。  現実を受け入れられなくて、おばあちゃんにも声をかけることができなかった。 『べに、一緒に駄菓子屋行こうか』  鮮明に思い出されるおじいちゃんと過ごした日々。  長い石段を下って、左に曲がったところに駄菓子屋さんがあった。おじいちゃんは私をそこによく連れて行ってくれて、帰りは石段を登りながら一緒に食べた。 『これはじいちゃんのと半分こだ』 『やったー! じゃあ、私のラムネ味のグミをおじいちゃんにあげるね』  そんな会話をしながら、私たちの間には笑顔が溢れていた。私のことをちゃんと見てくれている。愛情を注いでくれる。大好きで大切な存在。 『なあ……お願いしてもいいか』  ——ああ、これは一月の記憶だ。  お正月を祖父母の家で過ごしていた私はおじいちゃんの寝室での会話を聞いてしまった。  体調が優れない様子だったおじいちゃんにつきっきりだった呉羽。心配で様子を見に行くと、ちょうど話し声が聞こえてきたのだ。 『俺がいなくなったら、紫代やこの家のことを頼む』  思わず漏れそうになった声を両手で口を塞いだ。おじいちゃんの発言にどくんと心臓が跳ねて、不規則な音を立てる。〝いなくなったら〟とおじいちゃんの口から出てきた言葉が無性に不安に掻き立てられた。 『なんで俺なんかに頼むんだ。俺はあやかしだ。いつ食うかわからねぇぞ』 『お前はしないよ。だって、人は嫌いでも俺たちのことは大好きだろう』 『相変わらず馬鹿なことを言うやつだな』  おじいちゃんがいなくなる。そんなこと想像もしていなかった。それにおじいちゃんが病気だなんて聞いたことがない。ずっと隠していたのだろうか。聞きたいことはあるのに、怖くて聞けなくて、動くことすらできなかった。 『紅花のことも心配だ。あんなにいい子なのに息子達とうまくやれていない』 『人は複雑だな』 『だからこそ、支えが必要なんだろう』  私のことを疎んでいるお母さんとお父さん。家にいることが苦しくて、この場所だけが自由に呼吸ができる。  私にとっての支えは、おじいちゃんやおばあちゃん達だった。それなのにおじいちゃんは、まるで近いうちに自分がいなくなることをわかっているかのように話している。 『世話になっている礼に、約束くらいしてやるよ。この家とお前の大事な家族を守ってやる』 『ありがとう、呉羽』 『……だから、生きろよ』  はっと顔を上げた。呉羽の声が震えているように聞こえて、開いているドアの隙間からふたりの様子を覗く。 『なあ、呉羽。人間に視えるように過ごしているのは疲れるんだろう?』 『……体調の悪いお前に檸檬を食わせるわけにはいかないだろ』 『やっぱりお前がいてくれてよかったよ』 『なんだそれは』  ベッドに寝ているおじいちゃんは笑顔で、椅子に座っている呉羽は俯いている。表情は見えないけれど、肩に力が入っていて耐えているようだった。 『呉羽が来てくれて、孫がもうひとりできたようで嬉しかったんだ』 『馬鹿か……俺はお前よりもっと長く生きてる』 『それでも、呉羽は俺にとって可愛い孫だ。いつもありがとな』  それ以上は覗いてはいけない気がして、私はそっとドアの前から離れて階段を下っていく。一段一段下るたびに、涙がぽろりと零れ落ちる。その場に座り込み、膝を抱えながら声を殺して泣いた。  おじいちゃんがいなくなる。  想像できない。想像すらしたくない。  嫌だ。いなくなってなんてほしくない。  そのことに頭がいっぱいで、怖くてたまらなかった。けれど、翌日起き上がって一緒に朝ごはんを食べたおじいちゃんはいつも通り元気そうで、顔色も良い。呉羽もいつもと変わらない。  あの会話は夢だったのではないかと思ってしまうほどだった。  この日が私とおじいちゃんが会った最後。  まさかこんなに早くお別れがくるなんて思ってもいなかった。  風に吹かれて雨が私の頬に落ちる。喪服に雨粒が滲みとなって広がっていく。朝から降り出した雨は未だに止む気配がなく、勢いは収まらない。分厚い灰色の雨雲が空を覆っていて、まだ昼間だというのに夕方のように薄暗かった。 「おい、ひとりで外に出るな。紫代が心配する」  声をかけられて慌てて振り返ると、呉羽が立っていた。私は呉羽のことがまだ少し怖くて、話すことに緊張していた。 「あ……う、うん」 「……大丈夫か」 「え……うん。だ、大丈夫」  呉羽がこんなにも優しい声音で話すことがあるのかと少し驚いた。いつもはぶっきらぼうに話すのに、この時の呉羽は私の顔色をうかがい、心配してくれているのが伝わってくる。 「あいつ、俺のことを孫だと言っていた」 「……うん」 「馬鹿なやつだな」  強い風に攫われた冷たい雨粒が私たちに向かって容赦なく降り注ぐ。 「呉羽はおじいちゃんのこと、好きだった?」 「そんなこと聞いてどうする。俺は所詮あやかしだ。人間とは違う」 「……そっか」  呉羽は静かに目を閉じていて、頬には雫が伝っている。雨だと思ったそれは、呉羽のまつ毛の間から零れ落ちていく。その瞬間、私の視界が滲んだ。 「呉羽。おじいちゃん……いなくなちゃった」  閉じていった呉羽の金色の目がゆっくりと私を捉える。 「私、ありがとうって言えなかった。優しくしてくれて、大好きで、いっぱいいっぱい伝えたいことあったのに……なにも言えなかった」  冷たい雨ではなく、温かな雫が頬に伝う。  一度溢れ出した涙は拭っても止まってはくれない。 「俺もだ」  滲んだ世界で、呉羽の涙が見えた。 「なにもできなかった」  寂しさに耐えるように眉根を寄せている呉羽に胸がぎゅっと苦しくなる。  お父さんもお母さんも、弟も涙を流していなかった。涙を流していれば、悲しんでいるというわけではないのはわかっている。けれど、おばあちゃんに声ひとつかけず、近づかないお父さん。帰りの時間ばかり気にしているお母さん。つまらないと愚痴を零し、こっそりとゲームをしている弟。  そんな中、血の繋がっていない呉羽が、あやかしである彼がおじいちゃんのことを想って泣いている。  おじいちゃんが大好きだった。もっと一緒にいたかった。それでも人の命は儚くて、別れは唐突にやってくる。  一緒に過ごせる時間はとても貴重で尊いものだったのだと失ってから気づいても遅い。もうあの日々を取り戻すことはできない。  私は呉羽の隣で、時折風に乗って吹き付ける雨に濡れながらおじいちゃんのことを想って声をあげて泣いた。  外はざあざあと、雨が降っている。ほんの少し室内は湿気ていた。  おじいちゃんが亡くなって八年が経ち、私は高校一年生になった。  今日はおじいちゃんの命日だ。呉羽は思い耽るように窓の外の雨に打たれている紫陽花を眺めていた。その背中は小さくて、寂しげで胸が締め付けられる。  ランドセルを背負っていた小学生から高校生になったけれど、呉羽はあの頃と姿が変わらず幼いままだ。 「ねえ」  後ろから声をかけると、呉羽の肩がぴくりと動いた。 「呉羽は……どうして子どもの姿のままでいるの?」 「お前が最初に会ったとき怖がったからだろ」 「それはそうだけど……」  きっと呉羽がずっと子どもの姿でいるのは、幼かった私が本当の姿を怖がったからという理由だけではない。  おじいちゃんが呉羽の子ども姿を気に入っていたことや、おじいちゃんと過ごした日々のことを忘れないように姿の時を止めているように思える。 「今日の晩御飯は呉羽が担当だったよね。なに作るの?」 「カレーだ」 「おじいちゃんが好きなメニューだね」  窓に反射した呉羽の顔が顰められる。 「そうだったか」と素っ気なく返してきたけれど、カレーにするのはおじいちゃんのことを想ってだろう。 「もう八年が経つね」 「……ああ、そんなに経つのか」  時が経つのはあっという間だけど、思い出が色褪せることはない。おじいちゃんが私の中から消えることは、きっとこの先もないだろう。私を『べに』と呼んで笑顔を向けてくれるおじいちゃんは私の中で生き続けている。 「呉羽」 「……なんだよ」 「おじいちゃんのこと大事に思ってくれて、忘れないでいてくれてありがとう」  呉羽はなにも答えなかった。この家でおじいちゃんは太陽みたいだった。  亡くなった今でも、私たちにとってそれは変わらなくて、写真の中で笑っているおじいちゃんが見守ってくれているみたいで温かな気持ちになる。  もう会えないのは寂しいし、もっと一緒にいたかった。伝えきれなかった想いもあって、後悔だってある。それでも、おじいちゃんがくれたものを私たちは大事に守りながら時を刻んでいく。人間でも、あやかしでも誰かを大事に想う気持ちは変わらない。  あのね、おじいちゃん。  私も守るよ。おじいちゃんが大事にしていたおばあちゃんのことも、孫のように想っていた呉羽のことも。今の私じゃ力不足かもしれないけれど、自分の持つ精一杯の力で守っていくから。だから、これからも私たちのことを見守っていてね。 「べにちゃん」 「はーい!」  洗面所からおばあちゃんが私を呼ぶ声が聞こえて、大きな声で答える。 「ちょっと手伝ってくれるかしら」 「今行く!」  おばあちゃんの元に向かおうと、その場を離れようとしたときだった。 「……忘れねぇよ」  呉羽が零した本音が、記憶の中の雨の日の涙と重なって、私の心に温かな波紋を起こす。  私も忘れない。忘れられるわけがない。  おじいちゃんのことも、この家で過ごした日々も、呉羽の流した優しい涙も全てが愛おしくて、心に残り続けている。  小さく笑みを落として、前を向いて一歩踏み出した。 了
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