書籍未収録*番外編 / 紫陽花の約束

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書籍未収録*番外編 / 紫陽花の約束

「げぇーんじー!」  口を大きく開けながら昼寝をしている玄二の周りをぐるぐると回る。 「なに寝ておる! 起きるんじゃー!」  この家の主人である玄二は、世話の焼ける男だった。  窓を開けたまま昼寝をしたせいで、風邪をひいて寝込むほどの虚弱さなのだ。何度も注意したというのに、また風通しの良い場所で昼寝をしている。まったく。一向に改める気配もない困ったやつだ。  それにお茶をこぼして、畳とやらをすぐに汚す。まんじゅうだってぽろぽろと零しては、大きな口を開けて笑う。 「……若緑は元気だなぁ」  薄眼を開けて微笑んでくる玄二をキッと睨みつける。いつもこの調子のため、怒っているこちらが間抜けに思えてくるくらいだ。 「また呑気なことを言いおって! 風邪をひいても知らんぞ」  呆れてそっぽを向くと、玄二は声をあげて笑った。 「心配してるのか。ありがとうな」 「心配なんぞしておらぬ!」  人間なんて自分勝手でつまらない生き物だ。  あやかしの姿が視えない者がほとんどで、稀に視える者と出会っても怯えるようにして逃げていく。なにもしていないというのに、わしを悪者扱いしてくる者もいたくらいだ。  けれど、玄二はあやかしが視えても怖がらず、食べ物を分けてくるような変わったやつなのだ。 「なあ、玄二……これはなんの模様じゃ?」 「ああ、紫陽花だな」  玄二宛に届いた文に描かれている不思議な絵は、紫陽花というらしい。玄二によると、雨がよく降る時期に咲く花だそうだ。 「それは綺麗なのか?」 「ああ、綺麗だよ。水色や青、紫、ピンクなんかもあったな」 「雨が降る時期に咲くなんぞ、難儀な花じゃな」  植物というものは日差しと水が必要だと聞く。けれど、雨が降ってばかりでは日差しはなかなか届かないだろう。 「なあ、若緑」  玄二は眠たげに薄めを開けながら、わしのほうへと手を伸ばした。皺の刻まれた骨っぽい手が生成り色の髪を梳いていく。 「雨が降る季節になったら、見に行こうか。ああ、庭に植えて育てるのもいいな」 「……濡れるじゃろう」  座敷童はほとんど住処にしている家から出ない。家を離れすぎると妖力が削られて弱ってしまうからだ。それに拭くものを持っていないので、雨に濡れたらこの家も濡らしてしまう。 「傘をさせばいいさ」 「わしは傘など持っとらん」  素っ気なく返すと、玄二がにっこりと笑う。 「ふたりで一緒の傘に入ればいいじゃないか」  玄二は穏やかな口調だが、案外頑固だ。わしの意見を聞きながらも、玄二の中ではもう行くことが決まっているのだろう。確か大きな黒い傘があったはずだと言って頷いている。 「わかった。約束だぞ」 「梅雨が楽しみだなぁ」  なあ、玄二。  本当はとても嬉しかった。紫陽花を一緒に見ようと言ってくれたこと。傘にふたりで入ろうと言ってくれたこと。  嬉しかったのに素直に言えなかった。  お前はこの約束を覚えてくれていただろうか。  外は雨が音を立てて降っている。分厚く白い塊に覆われた空ばかりが続くこの時期は、おそらく雨の降る季節だろう。 「玄二……紫陽花はいつ見れるんじゃ」  もう帰ってこない玄二の名を呼んでも無意味だとわかっている。人の命は儚い。虚しいくらいあっけなく終わってしまう。  別れを告げることもできないまま、玄二は死んでしまった。  こんなにも胸が痛くなるのなら、約束なんてするものではなかった。雨が降ると思い出してしまう。  最後くらい素直に伝えればよかった。  半分こした饅頭は甘くて美味しかった。  毎朝櫛で髪を梳かしてもらえるのが嬉しかった。  外に出るのは妖力が削られて疲れたけれど、植物や鳥の話、家の中ではわからなかったものを教えてもらえるのは楽しかった。  〝若緑〟と呼んでもらえるのが好きだった。  なあ、玄二。  大好きだったんだ。  お前と過ごす日々は宝物みたいにキラキラしていた。いなくなってから気づくなんて、わしも間抜けだな。  優しくしてくれてありがとう。この家で玄二と出会えてよかった。  お前にもう一度、名前を呼んで笑いかけてもらいたかった。 「玄二……」  足音が近づいてくるのが聞こえてくる。この家には玄二以外の家族がいる。おそらくその誰かであろう。もう玄二がこの部屋にくることはないというのに、足音が聞こえると期待してしまう。 「若緑」  名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がる。けれど、この声は違う。玄二の柔らかでひだまりのような声ではなく、夜の静けさを感じる低く落ち着いた声だ。  振り返ると玄二の孫の晴夜が大きななにかを抱えて、こちらへ歩み寄ってくる。 「ここにいたのか」 「……なんじゃ急に」  晴夜は玄二とは違いあやかしを視ることはできなかった。けれど、妖力のある檸檬をわけてもらい、口にすることによって、一定時間だけあやかしを視ることができるのだ。そのため、こうして時折話しかけてくる。 「今さっき届いた」  目の前に置かれたのは、長い器に入った植物だった。小さな水色の花が丸くなるように集まっており、大きなひとつの花のように見える。 「紫陽花だ。じーさんが生前に、この時期になったら届くように注文していたみたいだ」 「これが……」  絵で見たものよりも小ぶりに感じるが、確かに同じ花の形をしていた。玄二はや約束を覚えていたのだな。 「絵で見るよりも綺麗だ」 「一緒に見る約束をしていたんだろ? きっとじーさんも庭に植える気だったんだ。今度俺が代わりに植えておく」 「そしたらここから見えるのか?」 「ああ。家の中から見えるように植える」  玄二よりも愛想がなく、可愛げのない人間だが晴夜も変わっている。あやかしのためにこのようなことをしてくれるとは思わなかった。 「わしのことが怖くないのか」 「今更だな」 「……甘味をくれないと祟るぞ」 「食事係かよ。わかった。それくらいやってやる」  ああ、玄二。退屈しないおかしなやつをもうひとり見つけたよ。  声をあげて笑っていると、晴夜は機嫌が悪そうに「笑うな」と言ってくる。  おかしいな。玄二の笑いが移ってしまったかもしれない。 「……お前はじーさんに似てるな」 「わ、わしが玄二にか?」  目がまん丸くなるくらい驚いた。晴夜はからかっているわけでも、嫌味をいっているわけでもなく穏やかな顔をしている。どうやら本気で思っているようだ。 「ずっとわしの隣には玄二がいた。だからいつの間にか、似てしまったのかもしれんな」 「じーさんは、幸せだったんだな」  何故そのような言葉が出てきたのだろうか。わけがわからず黙っていると、晴夜は口元を緩めた。 「似るくらい大事な存在だったんだろ。それなら、きっとじーさんにとっても同じだ」 「……わからぬぞ。わしのようなあやかしに付き纏われて迷惑していたかもしれん」 「わかるよ」  晴夜の手が紫陽花の根元に伸びる。小さな紙が添えられており、かつて玄二が教えてくれた漢字というものがふたつ並んでいた。  〝若緑へ〟  ぽっかりと心に開いた寂しさは、ずっと消えない。  これからも玄二を思い出してしまうだろう。けれど、もう大丈夫だ。わしもお前の孫も、玄二のことを忘れずに大事にしながら生きて行く。  ありがとう、玄二。  小さな紫陽花から雫がぽたりと流れて、きらりと光った気がした。 了
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