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ようやく訪れた、いつもの風景だ。
小鳥の澄んだ歌声が遠くから聞こえてきた。
「どうなさったんです? おじいさんらしくない」
むっつりと口を閉ざす善治に寄り添ったまま、トヨ子はニコニコ顔を崩さない。
「お部屋の天袋が空いていましたね。探し物ですか?」
「気づいとったのか」
短くため息をつく。
ちらと横目で見やると、トヨ子はいつものように庭の花々を眺めていた。
「教師時代の名簿を探しておった。教え子から連絡が来てな……」
「そうでしたか」
「……何か、言うことはないか」
花から善治へ、視線が移る。
しかしトヨ子に動揺の色はない。
「手紙が出ていましたね。随分と昔の恋文が」
驚いたように善治が振り向いた。
いとも容易く禁忌に触れられたように。
「わしは、お前と結婚する前にも付き合うた女はいる。しかしそれらの名残は皆捨てた。昔の女など必要ないし、なによりお前に不実だ」
「はい」
「……もう一度訊く。何か、言うことはないか」
「その手紙の中は見ましたか?」
質問を質問で返され、善治はむっとした表情で言い返した。
「わざとではない。お前に来た恋文だと分かっていれば読まなかった。わしのところに入っていたから、てっきり自分宛てのものだと思って、一体何の手紙だったかと見たのだ」
「どこまで読みましたか」
「……ひと目見た時から好きだったと。会うたびに惹かれ、今では夜も眠れぬと……そう、書いてあった」
トヨ子は視線を白丁花に向けた。そして、穏やかな口調で諳んじる。
「――"薫風爽やかな季節となりましたが、如何おすごしでしょうか。
先日の花見では、大変楽しいひとときを過ごすことができました。
思い起こすたび心が踊り、早くまたあなたに会いたくなります。
こうしてしたためるのは大変に恥ずかしゅうございますが、私は心から惹かれ、あなたを想うたび夜も……"」
善治は呆気にとられ、ただ聞くしかなかった。
トヨ子の朗読は続き、そして彼の知らないところまで読み上げて、最後に馴染みの名前を口にした。
「……今、なんと言った」
「ですから、愛しい善治様へ、と言いました。トヨ子より、とも」
狐につままれた顔で、善治は妻と見つめあった。
柔らかい面持ちで、妻は悪戯っぽく告げる。
「だって善治さんたら、私より先に告白しちゃうんですもの。何度も書き直したのに、結局この手紙の出番がなくって」
「あ……ああいうのは、男からするものだ」
「もし先に私があの手紙を渡していたら、はしたない女だとお思いになりました?」
そのとき、軽やかに廊下を鳴らす音が近づいてきた。
手伝いを終えた舞が、嬉しそうな顔で走り寄ってくる。
「おじいちゃん、元気になった?」
「ああ、もう大丈夫だ」
「じゃあ公園に連れてって! 滑り台したいの」
「分かった、分かった」
右手を引かれ、善治が腰を浮かす。
振り返ると、笑顔で見送るトヨ子に告げた。
「この手紙は、預かっておく」
「はい」
「それから……先ほどの返事は、否だ」
「はい」
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