不確かな記憶

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 太陽が昇ると朝になり、沈むと夜になる。  それは人の一生のようだと、例えた人がいた。  じゃあ月は?  生と対するものになるんだろうか。  オレンジ色の夕焼け空を見ながら、そんなことを考える。 「大丈夫ですか?」  背後からかけられた声に驚き、体が小さく跳ねた。  振り向くと、わたしのすぐ後ろを歩いていた雪君が、心配そうな顔をしている。  オレンジの光を受けた柔らかな髪は、ふわふわと風になびき、とても綺麗。  きめ細かい肌は名前と同じくらい白くて、明るめの茶色の瞳が、気遣うように緩んだ。 「体調が悪いようでしたら、休憩しましょうか?」 「あ、いや、違うんです。見とれてしまったんです。その……夕日があまりにも綺麗で」  自分よりも年下の少年に気を遣わせてしまったことに慌て、わたしは必死に取り繕う。  雪君は納得したように頷いた。 「今日は波も穏やかで、天気も良かったから夕日が綺麗に見えますね」  そういって雪君も、海に沈んでいく夕日に視線を移した。  夕日の光が雪君の瞳に反射して、きらきらキラキラ輝いている。  その横顔を見て、胸の奥がちくんと痛んだ。  本当は、夕日の美しさに感動していたわけじゃないから。  空に染み広がり始めた闇が、怖かった。  わたしの中で『夜』は、『死』という認識でしかない。  もちろん、それは十年前に目撃した飛行機事故による影響が大きいわけだけど。 「あらら? 蜜花さん、どうしたと? 疲れた?」  わたしの前を歩いていた多恵さんまでも、いつの間にか足を止めてこちらを見ていた。  多恵さんは額に流れる汗をタオルで拭いながら、肩で大きく息をしている。 「すみません。夕日が綺麗で、足が止まってしまいました」 「ああ、そうやろ、そうやろ。 加岐馬(かきま)島から見える夕日は、人工物が邪魔しない天然もんでやからねぇーー」  そういって豪快に笑う多恵さんに、雪君が苦笑する。 「夕日はどこで見ても同じじゃないのかな?」 「あら、なん言いよっと、雪さん! 全然ちがうとよ、本当に。ねぇ? 蜜花さん」  多恵さんに返事を求められ、思わず頷いてしまった。  多恵さんは満足そうな顔をして、山道を登り始める。  春も終わり掛けの山には、柔らかな緑色の草花が茂り、木々の葉の隙間から通り抜ける風は海の匂いが混じっていた。  都会とは違う澄んだ空気が心地よい。  多恵さんは数歩歩いては立ち止まり、汗を拭く。  なんとはなしに眺めていたのだが、同じように多恵さんを見ていた雪君と目があい、二人して笑った。 「家はこの坂を上がればすぐやけん。あと少し、頑張ってねーー」  今にも悲鳴をあげそうなふくらはぎと太ももを頭の中でねぎらいつつ、多恵さんに続く。  わたしの名前は森山蜜花(もりやまみつか)。  年は二十歳で、地元の短大に通っている学生だ。  後ろを歩いている綺麗な子は、志摩(しま)(ゆき)君。  自己紹介をしてくれた時に十七歳だと言っていたけど、若い子特有の浮ついた感じがない。  とても落ち着いていて、にこにこと笑顔の素敵な少年だ。  前を歩いている女性は、加川(かがわ)多恵(たえ)さん。  志摩家で働いているお手伝いさんらしい。  ぽちゃっとした体形の五十代の女性で、ころころとよく変わる表情と大きな笑い声が特徴のある愉快な人だ。  わたしは今、長崎県の外れにある加岐馬という離島にいる。  二人は島の人で、わたしを迎えに来てくれた。 実はここ加岐馬は、十年前に実姉の柚子(ゆずこ)が暮らしていた場所なのだ。 姉は当時二十二歳。  わたしとは一回り年が離れていたせいか、一緒に暮らした時間が短いからか、姉妹喧嘩をした記憶はない。  いつも穏やかで優しい姉の事が、わたしは大好きだった。  そんな姉が帰ってくるはずだった、あの日。  事故は起こったのである。  町はずれにある山の上の展望台。  そこは航路にあるのか、飛行機を比較的近い距離で見ることができた。  もちろん、搭乗者の姿は見えるはずもないけれど、姉が乗る予定のセスナ機を一目見たいと思うとじっとしてられなくて。  初夏とはいえ八時を過ぎていたせいもあり、両親がなかなか家から出してくれなかったけど、部屋で勉強するふりをして、窓から外に出た。  部屋は一階にあったし。  明日学校に持っていく為に準備していた、上履きもあったから。  自転車に乗って公園に向かう道、ずっとドキドキしてたことを、今でもはっきり覚えて いる。  両親を出し抜いたことへの優越感や、目的を成し遂げた事への達成感。  後で怒られることも気になんてしなかった。  タイミング悪く自転車のチェーンが外れてしまい、歩くしかなくなった時にはさすがに後悔したけど。  意地はって、暗い山道をひたすら歩いた。  人通りもないし、虫は多いし。  でも見上げた空は、星が瞬いて、とても綺麗だった。  星に目を奪われ、足を止めた時、異変に気付いた。  お腹に響いてくるような重い音。  それは遠い空から自分に向かってくるようで。  セスナ機のエンジン音だと分かったのは、火を噴く機体を目にした時。  無意識のうちに耳を手で塞ぎ、わたしは絶叫していた。  セスナ機はかなり低い位置を飛んでいて、スピードもおちていたと思う。  その後は……正直思い出したくない。  わたしがいたところから、セスナ機が落ちた場所はかなり離れていた。  それでも衝突時に発生した衝撃波を受けたせいで左足と左腕を骨折し、その後の火災で右肩付近を火傷したわたしは今も右腕を動かすのが自由ではない。  見つかった場所も展望台からはほど遠く、爆風で飛ばされたとか、意識の混乱による勘違いだとか色々と言われた。  でもわたしははっきりと覚えている。  確かに生存者の子供がいたって。  その子が姉さんの頭を持ち去ったって訴えたけど、誰も信じてくれなかった。  そんな乗客はいなかったと何度も言われたし、乗客四名は全員死亡が確認されている。  もちろん、そこには姉の名も並んでいた。  四十九日の時だったか。  両親は、姉さんの遺体はひどい状態だったけど、ちゃんと全身揃った状態で弔った事を教えてくれた。  わたしはカウンセリングを受け、事故による記憶障害だと診断された。  しかし、今から二か月前、それは一変する。  姉の十回忌を機に、それまで立ち入ることすらタブーとなっていた部屋を両親と一緒に片づけることにした時。  加志馬にいた頃の荷物も段ボールに入れたままになっていたのだが、その中に気になるものを見つけた。  事故現場にいた子供と、姉が一緒に写った一枚の写真。  レンガの暖炉と白い壁を背景に、俯きがちな少年の肩に右手を添えた姉が微笑んでいた。  濃いめのアイメイクに明るめの髪をヘアアイロンで綺麗に巻いた姿は、わたしの記憶の中の姉とはかなり印象が違う。  子供も……あの時見た狂気的な雰囲気は全くなかった。  長めの髪から、顔や性別はわからない。  それでも、あの少年は存在していたんだということに、胸の中のざわつきが抑えられなかった。  どうしてあの場から姿を消したのか。  なにを取り返しに来いと言ったのか。  梟ってなんの事なのか。  いてもたってもいられなくなったわたしは、生前姉がお世話になっていた加岐馬島の志摩家に連絡した。  加岐島は全島民が三十人にも満たない小さな島。  島自体が志摩家の持ち物で、一時的に滞在するものや、単身者は志摩家に部屋を借りることになっているのだという。  姉は大学在学中に、野草の研究で訪れた加岐馬島に強く魅入られた。  両親に相談せずに大学を休学し、自らの意思でここに引っ越したのだ。 『あの時もっと強く反対すれば良かった』    姉が亡くなって半年たったある夜に、姉の写真を見つめながら父がぼそっと漏らしたことがある。  そんな父の肩にそっと手を添えた母は、どんな表情をしていたのか覚えていない。
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