第1章 静かなマンション

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第1章 静かなマンション

 「やっぱり85平米あるといいなあ。」 高山賢治は今日不動産屋で貰ってきたチラシを手に妻の諒佳に声を掛けた。諒佳は洗い物の手を止めると静かに顔を上げて、 「そうね、ちょっと駅から遠いけど。あなたは大丈夫なの?」 そう答えた。その声には既にここに決めるという固い決意が含まれていた。賢治もそれを感じ取って、 「今時17分は仕方ないだろう。保育園も近いし、静かな環境は魅力的だよ。」 と答えたが、問題は価格であることを言い添えるのを忘れなかった。 「それなら大丈夫よ、お父さんが半額持ってくれるって言ってるから。」 諒佳の答えを確認して賢治の気持ちも整理が付いた。親掛かりもどうかと思うが、まだ30代前半の賢治に20万円(管理費と駐車場込み)の家賃はきつい。例えば10万円を義父に持って貰えれば、二人目をつくることも現実味を帯びる。 「でも家賃を半分持って貰うっていうのは・・・。」 しかし賢治は敢えて妻にそう言ってみた。 「いいじゃない。払ってくれるって言うんだから。むしろ生前贈与で節税にもなるんじゃないかしら。」 そんなこと、と言いかけて飲み込むと賢治は黙って首を縦に振った。  翌日賢治は半休を取ると不動産屋へ出向いた。CAP51番館は都心から電車で45分。最寄りの駅から徒歩17分・・・ということは実質20分の場所にある。周辺は静かな住宅街で徒歩圏内に保育園と幼稚園があった。小学校も近い。隣町には大型ショッピングセンターもあり車を使うなら買い物にも苦労はない立地だ。  賢治は不動産屋の営業に勧められて内見に向かうことにした。既に部屋のクリーニングは済んでいるという。 「ここは掘り出し物だと思いますよ。駅から17分と少し遠いですが、そこは慣れですよ。周りは静かだし、築25年ですがリフォームしたばかりなのできれいです。」 車を運転しながら営業マンの平井が語る。 「空いているのは2階なんですか?」 賢治が高まる期待と、同様に募る不安を抑え込みながら営業の平井に問いかけた。 「そうなんです。本当は最上階の7階も空いてたんですが既に埋まってしまいました。この部屋も契約寸前まで行ってたんですが、事情でキャンセルになって・・・。高山様、超ラッキーですよ。」 平井はそう言って笑顔を見せた。 「2階だとゴキブリとかやっぱり出ますかね。」 言ってから賢治は何てことを聞いてるんだと自戒した。だけど営業マンは意にも返さず住宅に出る害虫についての見解について蕩々と語り出した。 「ゴキブリが出ないのは5階以上です。それより下の階は出ますね。これはマンションの構造とかそういうことではなくて周囲の環境に依ります。繁華街とか飲食店があったり、常にゴミをため込むような家があると来てしまいます。」 平井の言説を聞き流しながら賢治は少しうとうとしたようだった。着きますよ、という声に賢治は我に返った。  車から降りた賢治は目的のマンションを見上げた。予想以上に大きな造りだ。7階建てと聞いて小ぶりなビルを勝手に想像していたがこれは大きい。住人たちの上等の暮らしが想像できた。すでに陽は西に大きく傾いている。エントランスに入ると賢治が最も引っかかっていた築年数に対する不安が消えた。 「きれいですね。」 思わず呟いた賢治の隣で平井は大きな身振り手振りでごく数年前に行われた大規模リフォームについて語り出していた。大きな腕時計がスーツの袖から見え隠れしている。彼の年齢にしては高級そうな時計だ。マンションの広いエントランスには応接セットが置かれており、明るい照明が点いている。応接セットの横には新聞が綴じて置いてあった。4時過ぎだったがエントランスには誰もいない。 「コンシェルジュこそいませんが、管理人が常駐しています。管理会社も大手なので手厚いですよ。」 平井の説明に頷く賢治。すでに不安より期待の方が大きく上回っていた。 「あ、急ぎましょう。5時までなんですよ。それに電気が来てないんで暗くなる前にご覧頂きたいです。」  営業マン平井は賢治を連れてエレベーターに乗り込んだ。目的の203の前に来るとガス水道メーターの入る収納ボックスのダイヤルキーを開けて部屋の鍵を取り出す。玄関扉を開くと意外に広めの玄関とホールだ。そして左が洋寝室6帖と右にはストレージ4・5帖があった。まずは部屋は見ずにそのまま廊下を進むとリビングダイニングへと通る。 「だいぶ暗くなっちゃいましたが、どうですか?」 キッチン付きのLDは南向きで大きな6枚のガラス窓になっていた。バルコニーはその外というわけだ。 「LDKで16帖あります。」 「いいですね。」 高山賢治は思わず声を上げた。今住んでいるマンションはLDが8帖、キッチンは別室だがそれを加えても12帖ほどしかない。狭いのだ。この部屋を見せられて自分たちの部屋の狭さを再認識させられた。 「この向こうに洋間、それとこっち側にも和室があります。3LDK+S、85平米です。」 営業マンが勝ち誇ったように言った。  「あの納戸がいいですね。思った以上に広い。」 「納戸にはエアコンは付きませんが、タンス類をあそこに入れてしまうと各部屋がより広く使えます。」 「なるほど・・・。」 高山賢治は平井の披露するこの部屋での生活を思い描いて興奮していた。来年小学校に上がる娘の部屋が用意できる。そして夫婦の寝室。その上少し狭いがもう一つある洋間を自分の趣味の部屋に使うことが出来れば・・・、テーブルを買ってプラモデル作りに集中できるだろう。飾り棚を用意して作品を並べることも出来るかも知れない。そして、義父からの援助で生活レベルは落とさずに済むはずだ。賢治は平井と共にエレベーターを降りるとエントランスを抜けて駐めてあった車に戻った。辺りはすっかり暗くなっていた。  日曜日今度は予約を入れた上で賢治は昼間の時間帯にCAP51番館の部屋を見に行った。妻の諒佳と娘の亜紀を連れて。営業マンは賢治に同行せずライフラインボックスのダイヤルキーの番号を教えてくれた。無人のエントランスを抜け掃除中の看板の掛かった管理人室の前を通ってエレベーターホールへ入る。 「へえ、エレベーターは2基あるんだ。」 諒佳が言った。 「全部で32世帯って言ったかな。エレベーター2基は贅沢だよな。ま、2階だから階段で十分だけど。」 賢治が返す。 「通勤時間帯はエレベーター混むからね。」 今は妻の諒佳も上層階でないことを認めている。そして部屋に入った途端に諒佳は賢治同様このマンションの虜になってしまった。 「明るくて広い!」 LDKに通るや諒佳は叫んだ。床はピカピカのフローリングで壁も真っ白だ。 「これ、光回線ね。」 諒佳が部屋の隅のジャックを指して言った。 各部屋を見て回った賢治と諒佳は父親の援助を前提に引越を決意した。 「お義父さんはいくら出してくれるのかな。」 暖かい日だまりの中に座って賢治が切り出した。 「10万円だって。つまり年間で120万円。10万円だけ現物支給するって言ってた。」 諒佳が答える。 「現物支給って、なんだそりゃ。」 賢治は笑いながら言ったがその実期待は高まっていた。10年で1200万円である。つまり贈与税の非課税枠を使って1200万円を提供して貰える。オーバーする分は現金で手渡しするか、電化製品でも買って貰うことになるのだろう。 「亜紀にね、教育資金贈与の用意もあるって。」 「それはいくら?」 「枠一杯で1500万円じゃないかしら。」 諒佳の父親は公認会計士である。会計士事務所を構えており3人の社員を抱えていた。莫大な財産を持つとまではいかないが、そこそこの蓄えはある。しかも公認会計士だ。可愛い孫娘のため資金を提供すると同時に相続時の節税対策を考えているのだろう。 「さすがだね。」 そういう賢治に諒佳は涼しげに、 「私が相続する時に税金が最大安くなるんだって。まあ、人生そううまく予定通りに運ぶとは限らないと思うけどね。」 正直なところ賢治は義父に愛されているとは思っていない。嫌われてはいないだろうが、義父の愛しているのは所詮娘と孫である。とはいえ10年経てば亜紀も高校生になる。その時に1500万円があれば・・・。 「よし、ここに決めよう。亜紀、自分のお部屋が持てるよ。よかったねぇ。それに将来はお医者さんになれるぞ。」 賢治は娘の亜紀を抱き上げるとそう言いながらクルクル回った。キャッキャと笑う娘を手の中に賢治は自分の幸運に快哉を叫んでいた。  それからは無我夢中で突っ走ったという感じだった。無事に審査が通ると賢治は2度CAP51番館へ通った。引越し前に家具の配置を考えるためであったり、コンセントの場所や収納の大きさを測るためだ。そして保育園の手続きをし、空きのないマンション駐車場の代わりに近隣で確保した。  引越し当日、賢治たちは一応菓子折を2つ用意して両隣り、つまり202と204の部屋の住人に挨拶をする予定だった。ところが不動産屋の平井は余りそういうことはしない方がいいと言った。グレードの高いマンションではご近所付き合いをあまりしないというのだ。今のマンションでは隣りも上も下もよく知った顔だった。多少の生活音が聞こえるのはやむを得ず、仲良くやる必要があったからである。とは言うものの賢治たちは隣家202の呼び鈴を鳴らした。だが、返答は無かった。時間を置いて再び試みたがやはり留守のようだ。少しして 「だめ、204もいない。」 諒佳が部屋に戻って来た。 「そうなんだ。土曜日なんだがなあ。」 賢治も首を傾げる。  荷物の搬入が全て終わって、引っ越し会社の人間が後片付けをして引き上げたあと、204のベルを高山夫妻は再び押してみた。だが、やっぱり誰も出て来なかった。 「留守なのかな・・・。でも誰かいる気配がするんだが。」 賢治が独り言のように呟くと諒佳もまた、 「ええ、何だか中で話し声がした気が・・・。」 賢治は今一度ベルを押した。反応なし。 「やめましょう。不動産屋さんが言うようにお隣さんと付き合う気はないのかも知れない。こういうところでは個人主義が強くって、そう、自分たちだけの暮らしを大事にするのかも。嫌がられても困るし、止めておきましょう。」 諒佳がそういうのを聞いて賢治も203へ戻ることにした。  夕食は賢治が隣町のショッピングセンターへ車で買い出しに行って来た。賢治が買ってきたのはピザに肉まん、ブリトー、生春巻き等々で、世界各国の食品が勢揃いだ。 「まったく。もうちょっとまともな晩ご飯を買って来れないかな。」 諒佳も最初は呆れ顔だったが、コーヒーとお茶にジュースと3種類の飲み物と一緒に世界旅行を楽しんでいた。 「亜紀にこんな物ばかり食べさせたら身体に悪いわ。」 そう言って諒佳は亜紀を睨んだが、亜紀はキャッキャとピザを頬張っていた。 「今日だけよ。明日はサラダをいっぱい食べること。」 諒佳がそう言うと、亜紀は分かりましたあと敬礼のマネをする。 「そんなことどこで覚えたのよ。」 諒佳はそう言って噴き出した。そんなやり取りを眺めていた賢治が少し顔を曇らせて妙なことを言い出した。 「あのさ、これは全くの偶然だと思うんだけどさ、ちょっと不思議なんだ・・・。」 賢治の回りくどい言い方に諒佳も訝し気だ。 「何なのよ。」 「うん。最初に不動産屋さんと内見した時、その後3人で日曜日に見に来た時も誰にも住人の人に会わなかったよね。」 と賢治がボソボソと話し出した。 「ああ、そう言えば、そうね。」 「日曜日だぜ。子供の一人も見掛けなかった。そりゃ、誰も日曜日が休みとは限らないよ。でも32世帯もあるんだよ、廊下を歩いていたって、ロビーにいたって、通りを歩いていたっていいはずじゃないか。」 「いやいや、たまたまでしょ。外の通りには住人の人が何人も歩いていたのかも知れないじゃない。」 諒佳は全く本気にする気がなさそうだ。だが、 「でも、その後僕は2回ばかりここへ来たけど、その時も住人の誰とも会わなかったよ。偶然なのかな?」 賢治が更に言い募ると諒佳も少し不安になってきたようだった。 「今日だってさ、引越の最中誰も見てないよ。エレベーター一基占領してたんだ、誰かにロビーで会ったっていいはずじゃないか。」 と再び賢治だ。 「202と204のお宅もいなかったし。もしかしてこのマンション誰も住んでなかったりして。」 諒佳はそう言うと噴き出していた。 「ないない、そんなバカなこと。」 しかし賢治の胸には妙な不安感が広がり出していた。 「誰も住んでないならそれでいいけど、何かに欺されて別の物が棲んでるマンションに引っ越して来ちゃったんじゃないかって、さ。」 「なに、別の物って。誰に欺されちゃったっていうのよ、あの不動産屋さん?」 諒佳も少々薄気味悪さを感じ出したようで、今度は笑っていなかった。 「だから、その。鬼多郎の仲間が住んでるマンションみたいな・・・。」 賢治がそう最後は囁くように言った。すると突然亜紀が大きな声を上げた。 「鬼多郎、鬼多郎!」 その声に諒佳がわっと仰け反った。 「なあに、亜紀。」 「鬼多郎いるの?」 と亜紀。鬼多郎はTVアニメの主人公だ。亜紀がいつも見ているやつである。 「いないわよ、そんなの。」 「いないのお。」 亜紀はがっかりという仕草で口をつぐんだ。 「あなたが、変なこと言うから。」 言われて賢治も話題を変えるしかなくなってしまった。ただ賢治がもう少し注意深く考えていたら、笑って済ませることではなかったのかも知れない。入居前にマンションを訪れた4回に4時間を要した引越しの今日、32世帯が住むというマンションで誰にも会わない確率がどんなに低いものだったのか。それはほぼあり得ない確率だったのである。
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