三つ隣の空

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三つ隣の空

「というわけでですね、太平洋戦争終結後の住宅不足解消のために団地というのはできたわけなんですね」  大教室の黒板の前で、教授がしゃべっている。  舌足らずの口調が妙に癇に障る。  教授は学生たちに背を向け、板書を始めた。  バーコード頭を恥ずかしげもなく晒している。 『団地住まいはステータス』 「機能的な間取り。備え付けの電化製品。団地は、従来の木造住宅よりも格段に住みやすかったんですね。団地に住むことがステータスだと思われていました」  半分の学生は寝ている。  あとの半分はひそひそとは言えない音量でしゃべくっているか、内職をしているかだ。  俺は、どれにも当てはまらない。 「しかし、近年……昭和60年代になると団地のデメリットが取りざたされていくんですね。デメリットのひとつは……わかる人いますか?」  教授が見渡すが誰も手をあげない。  わかりきっていたのか、教授は何事もなかったように続けた。 「団地住まいがステータスのひとつだった時代は、団地内でも近所の交流もありました。なのですがー」   「徐々に交流が減っていきました。それはなぜでしょうか」  教授はまたバーコード頭を晒した。 『違法建築』 『ご近所トラブル』  白いチョークの粉が、教授の肩にフケのように降りかかる。 「団地がたくさん建造されていく中で、建築基準に達していない建物も増えてきてしまったんですね。必然的にご近所トラブルが発生します」 「みんなひきこもりがちになっちゃったんですね。そう、ひきこもりはこの頃から始まっていたとも言えますね。団地に各家族が引きこもる。これぞ核家族。なんちゃって、ウフフフ」  お前、今思いついたろう、そのギャグ。    教室内は大いにしらけた。  いや、しらける以前に誰も興味を持っていなかった……と俺は思っていた。  教授もそう思ったのか、 「最近は個人住宅ブームですからねー。団地住まいは減っていますものねー。みなさんにはあんまり馴染みがなかったかなー」  と、苦笑いして言った。  授業がウケなかったのを学生のせいにする気か。情けない。  俺は、少なくともこの授業に多少興味を持っていた……授業が始まるまでは。  俺自身が、 生まれたときから団地に住んでいるから。  うっとおしいご近所づきあい。……教授が言ったみたいなご近所トラブルはあっても、同じ団地に住んでりゃ嫌が応にも付き合いは続く。そのうっとおしさったら本当に筆舌に尽くし難い。最も筆舌に尽くし難いのは、ご近所の愚痴を俺にこぼしてくるお袋だが。    6階建てなのにエレベーターがない。階段を昇るだけでくだびれるから一度家に入ったらもう出たくなくなる。……ひきこもりの一番の要因はこれじゃないのか?  あとは……「団地に住んでいる」という劣等感。壁にはヒビが入り、古い家の匂いがし、管理も不行き届きで雑草は生え放題。自分がここに住んでいるとバレたくなくて、いつもこそこそと不審者のごとく帰宅する。  「都市文化学」の6回目……「団地の変遷」。  そんな団地の現状を、もっと明確に解説してくれるかと思ったのに。  てんで、わかっちゃいない。 「この中で団地に住んでいる人、いますかー?」  ……ほんとうに、てんで期待はずれだ。  住んでたって、手をあげるわけないだろう……。  と思ったら、ひとりだけ、大教室の中でひとりだけ手をあげたやつがいた。  俺のものすごく近くに。  俺の席から三つ、空席。  その向こう、窓際に座っている男だった。  物怖じすることなく、まっすぐに手をあげていた。  サラサラの黒髪が白いシャツの襟足でわずかに揺れていた。 「ほ、ほぉー、そうですか」  教授の声が裏返った。  なんだそのリアクションは。  驚くくらいなら最初から聞くなよ。  チャイムが鳴った。 「では本日の授業はここまでですね、はいおつかれさまでした」  教授はさっさと教壇から降りる。  あわてて遅延証明を持って行く学生。  ガヤガヤと連れ立って出て行くチャラ男やギャルたち。    三つ隣の男がすくっと立ち上がった。 「団地も、そんなに悪いもんじゃないけどな」  彼が立ち去ると、急にまぶしくなった。  窓の向こうにはふたつ並んだ団地。  無機質な壁と壁の隙間から、青空と夕日が見えた。  見たこともないくらい、きれいな空だった。 【参考文献・参考サイト】 ・団地の歴史を知ろう。始まりから衰退、そして再生期へ。(神奈川県住宅供給公社)  https://www.kousha-chintai.com/blog/knowledge/apartment-complexes-history.php
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