27.

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 火曜日の午後、出勤してきた麻野はカウンセリング室の本棚から色褪せたファイルを一冊取り出した。  結局まだ整理することができずにいた資料だったが、今は処分していなくて良かったと思える。  麻野の長い指がそれをぱらぱらと捲っていく。  そこに書かれている内容を見て、麻野は眉を顰めた。  そのとき、カウンセリング室のドアがノックされた。 「はい」 「麻野くん、ちょっといい?」  ドア越しにややくぐもった園長の声が聞こえた。 「どうぞ」 「悪いわね、仕事中に」 「いえ、何かありました?」 「ええ……昨日、ここを卒業してった子が戻ってきてね」 「ああ……シスターから聞きました」  と、今見ていたファイルを園長に見せた。  その表紙には『竹石梢』と記されている。 「ああ、そう……もう聞いていたのね」  と、ほっとした表情を浮かべた。 「はい」 「仕事とは別になってしまうかもしれないけど……ちょっと、話してみてもらえるとありがたいわ」 「シスターにも言われましたよ、誰にも何も話さないって。でもまだ昨日の今日だと、気持ちも落ち着いていないところもあるでしょうし、すぐにどうこうというのは難しいですね」  食事は少しは口にしているが、部屋からほとんど出て来ないと心配していたシスターの表情を思い浮かべた。 「そうでしょうねえ」 「まだシスターに聞いた分だけなのでなんとも言えないですけど、場合によっては警察に通報すべきことかもしれないですし。……とりあえず今、子どもたちが帰ってくる前にちょっと話をしてみようとは思ってますが」 「そう。悪いわね、時間をとらせてしまうけど」 「いえ、全然。構いません」  それまで難しい顔をしたままだった麻野が初めて笑顔を見せた。 「ありがとう」  そう言って部屋を出て行った園長の背中を見送ってから、また手元のファイルに視線を移した。  客室のドアをノックすると、小さな声で返事が聞こえた。 「カウンセラーの麻野と言います。……今、入っても?」 「……はい」  その返事を聞いてからドアを開けた。 「こんにちは」  入所している子どもから借りたのだろう、やや子どもっぽい柄のパジャマを着て、梢は起き上がった。  乱れた髪を直すように指で梳きながら、麻野の顔を見た。 「……麻野さんって、佐奈の彼氏ですよね」  挨拶もそこそこにそんなことを言う梢に、麻野は少し苦笑した。 「話、聞いてるのかな」 「少し。恥ずかしがってなかなかしゃべってくれなかったけど」 「そうだろうね。……そうか、この前彼女の部屋に泊まったって友達は君かな」  そう返事をして肩を竦める麻野を見て、梢は少し笑った。 「ひどい顔してるでしょ、あたし。……恥ずかしいな」  昨日よりは少し腫れが引いたものの、ガーゼが当てられた頬を手のひらでそっと擦った。 「いや、……まだ痛いかな」 「まあ……、でも大丈夫」 「……慣れてる、とか」 「そうでも、ないけど。……そんなこともないよ」 「そうか」 「……なんかあたし、男運ないのかも」  俯いてぽつりと呟く。 「まだ十九でしょう? これからまだまだ色んな人に会って、いい人に会えたらそれでいいんじゃないかな」 「そうだけど。……そうだね」  弱々しく微笑む目に、うっすらと涙が浮かんだ。 「麻野さん。……麻野先生、か。……佐奈を大事にしてあげてね。ホントに、いい子だから」 「……うん」 「きっと、すごくあたしのこと心配してると思うんだけど……あたしはもうすぐ元気になるからって、伝えて」 「わかった」 「また佐奈と遊んでもいいかな? 先生は嫌じゃない?」  縋るような表情が、その身に起こったことを麻野に想像させた。 「全然。僕は構わないよ。きっと佐奈も喜ぶと思うし」 「よかった。……ありがと」  安心したような笑顔を見せる梢の表情を確認してから、立ち上がった。 「いや、思ったより元気そうでよかった。みんな心配してたから」 「うん。そうだと思ったけど。……あたし、もうちょっとここに居られるかな?」  行くところないんだ、と小さな声で続ける。 「大丈夫だと思うよ。園長先生に言っておくよ」 「うん、お願いします」 「何かあったら、また話しして。火曜と金曜に来てるから」  そう言って部屋を出た。 「あ、先生……」  ドアを閉めたところで、佐奈の声がした。 「あれ……こんにちは」 「あ、こんにちは」  ぺこりと頭を下げる佐奈に笑顔を見せる。 「あの、梢に会ったんですか?」 「うん、佐奈の彼氏でしょって言われたよ」 「あっ、やだ、梢ってば……なんだ、そんなこと話せるようになったんだ」  恥ずかしそうに赤面しながらも、安心したような表情になった。 「言ってくれればよかったのに」 「え?」 「竹石さんのこと」 「あ……そうですね……すみません」  昨日のうちに相談してもよかったかもしれない、と佐奈は少し後悔した。 「いや、謝ることでもないけど」  肩を小さく竦めて微笑む麻野の表情は佐奈を責めているわけでもないようで、ホッとした。 「ちょっと、あの、バタバタしちゃってて」  佐奈の中で昨日の動揺はまだ整理がついていなかった。  どう表現したらいいのか、誰かに伝えるべきなのかどうかも決めかねていた。  そのため、曖昧な表現で誤魔化してしまう。 「まあ、そうだろうね」  ふたりは並んで廊下を歩く。 「竹石さん、何があったかは具体的には何も話さなかったけど……そういう子なのかな」 「あ……うん……そういうところは、あるかもしれません……子どものときのこと、教えてくれたのはここに来てからずっと後だし……最近だって自分のことはそんなに……そう、あんまり言わないんです……」  佐奈のことは根掘り葉掘り聞いてくる割に、自分のこととなると話をはぐらかすことが多かった。  一緒に住むと言っていた恋人のことも、どんな仕事をしているとかどこに住んでいるとか、詳しいことはほとんど聞くことはなかった。 「そうか」 「わたし……友達だって思ってたけど、こういうときに全然力になれなくて……わたしには何もできなくて……」  持っていた紙袋をぎゅっと抱きしめるようにしながら、涙声で俯く。 「いや、……佐奈の気持ちは、彼女もよくわかっているよ。……佐奈を大事にしてくれって言われたよ」  カウンセリング室のドアの前で立ち止まった。 「え……や、やだな……そんな……」 「佐奈は、やさしいな」  ふっと柔らかい微笑みを見せる麻野と目が合い、思わず俯いてしまう。 「……そんなこと、ないです……全然、なんにもできなくて……ただ、みんな、誰も傷ついて欲しくないんです……」 「そうだね。……ところでその荷物は?」 「あっ、これっ、梢の着替えにって持ってきたんだった……あげてきますっ」 「いってらっしゃい」  パタパタと歩いてきた廊下を駆け戻る小さな背中を見送ってから、カウンセリング室に入った。 「梢ー……入ってもいい?」 「あ、うん、どうぞ」  返事を聞いてからドアを開けた。 「着替え、わたしのだけどよかったら使って」 「あーありがと。昨日ここで貸してくれたの。子どもっぽいよね」  と、着ているパジャマの襟元を揺らす。  まだ腫れた頬が痛々しく思えて、佐奈は梢の顔を見ることができなかった。  無意識にぐっと奥歯を噛みしめてしまう。 「……最近の梢の格好と比べたら、これも子どもっぽいかもだけど」  と、持っていた紙袋からスウェットやTシャツを取り出した。 「あれ、佐奈、半袖も持ってるんだ」 「あ……部屋着くらいなら、Tシャツも着るよ」 「今さっき、彼氏に会ったよ。昔に見たことはあるけど、話ししたのははじめてー」 「あ……うん、わたしも今そこで会った。……変なこと、言わないでよ、もう……」 「別に何も言ってないよ。……ごめんね、心配かけて」  突然の謝罪の言葉に、どう返事をしていいのか一瞬迷った。 「あ……ううん、わたしは、何も……」 「でも、ごめん、……まだ、話したくないの……話せないんだ、まだ……」 「……うん……」  ……やっぱり、そうなんだ。 「わたしじゃ、ダメなのかな……」  事務室に戻ってからぽつりと呟く。  中庭からは子どもたちの楽しそうな声が響いてきていた。  退勤時間を過ぎてすぐに、身支度を整えたあと、給湯室でコーヒーを落とした。  トレイにコーヒーカップを載せ、カウンセリング室に向かう。 「……失礼します」  ノックをして声をかけた。 「どうぞ」  その声を聞いてから、ドアを開けた。 「今日は早いね」  誰かがカウンセリングなどに来ていたらどうしようかと心配だったが、部屋には都合よく麻野一人しかいなかった。 「すみません……なんだかちょっと、疲れてしまって……」 「そっか。……ありがとう」  机に置いたコーヒーカップを手にとって、佐奈に微笑みかけた。  佐奈は少し俯いて、首を横に振る。 「わたしには、なにもできなくて……梢にも、……先生にも……こんなことくらいしか、できないんです」 「でも、佐奈が淹れてくれたコーヒーはおいしいし。そんなことでも、いいんじゃないかな」 「え?」  麻野は、顔を上げて目を瞬かせる佐奈を真っ直ぐに見つめる。 「自分のために丁寧にコーヒーを落としてくれたと思うと、誰でもうれしいと思うし。何だってそうだと思うよ」 「……はあ……」  自信なさげに曖昧な返事をする佐奈に、眼鏡の奥の瞳を細める。 「早めに帰って休んだらいい。竹石さんのことは、シスターもいるんだし、きっと大丈夫」  佐奈の手を引いて引き寄せて、軽く唇を重ねた。 「僕は今日はこれだけで我慢するから」 「や、やだ……先生……」 「早くしないと、気が変わるかもよ?」 「え、えっと……じゃあ、失礼します……また、金曜日に、ですね」 「うん、また金曜に」  そう言ってやさしく目を細めた麻野に、少し後ろ髪を引かれるような気持ちになりながらも、カウンセリング室を出た。
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