【Ma】

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【Ma】

夕刻。招待客がぞろぞろと帰宅し、使用人が忙しなく動いてた頃だ。まるで落雷したように、豪邸内に響き渡った怒声。 その声は、倉庫内で佇んでいた律の耳にも勿論届いていた。 間違いない。これは紛れもなく父親の声だ。と。神妙な溜め息を吐く。 聞き耳を立てれば、殴打されたような音までもが漏れ響いて来る。この上なく晴れやかな気分だと、律はクスクス肩を震わせていた。 そうして、それは数十分と続き、使用人達が大広間を片付け終えた頃に鳴り止んだ。 終わった食事。箸を置き、御機嫌そうに回したボール。 今日はいい日だ、神様はいたんだ。なんて、幸福を隠さない笑みでボールを抱き締める。 そんな弟の歪んだ心境を、兄は知らない。 だから何度も弟の元へと出向いてしまうのだ。 「あ……?」 静かに開かれた扉。朱色の陽射しが、倉庫内に漏れ行く。 それを背にやって来た兄の顔は、とても痛ましかった。 腫れ上がった頬や瞼。加減なく殴られたのが、手に取るように解る。それを見、吹き出しそうになるのを堪えつつ、律は口を開いた。 「『恥晒しが!!』だって」 律の顔が段々と意地悪く歪み行く。そんな弟に応えるように、優しく微笑むばかりの奏。 「馬っ鹿でやんの。ダセェなお前!! 毎日練習してたのに、ミスるなんてさぁ……情けなくてウケんだけど!!」 手を叩き、爆笑してみせる。激励するより、神経を逆撫でする台詞を吐く。醜い絆だ。 しかし、そうまで馬鹿にされても、奏の顔色は何一つ変わりやしない。律の中で突如、生じた違和感。 こうまで罵られても、逆上しない。抵抗は愚か、感情が感じられない。そんな兄の余裕が腹立たしくて、不気味だ。 「笑ってんじゃねぇよっ!!」 奏に向かい、投げつけたコップ。顔面を滴るココアが、哀愁を誘う。刹那、近付いて来る兄に律は思わず身構えた。 振り上げられた腕に、戦慄が走る。とうとう逆上したのかーーと。 「上手に弾けたんだ」 「は……?」 「スッキリしたか?」 目の前に差し出された、兄の手の平。余りにも余裕で、地団駄を踏む子供をあやす親のような笑み。 とても大失態を冒した後の顔とは思えない、幸せそうな表情ーー律からしたらそれは、まるで天使の仮面を被った、悪魔の嘲笑にしか見えなかった。 「お前、まさかっ……わざとっ……!?」 返事はない。だが、兄の異常な程の優しい微笑みが全ての真相を律に刻みつけた。自分の確信に否定は零だ、と。 「な、んっ……何で、……何で!!」 焦った声が飛ぶ。伝う冷や汗。見開かれた金目が、奏を揺らしながら映している。そこに朧気に霞む、柔和な微笑み。 律の潜在意識に潜んでいた違和感の正体が、更なる確信へと結び付く。この男は、弱きを見下す事で自尊心(矜持)を保っている。自分は所詮、コイツの踏み台でしかないのだと。 「……、ざ、けんなっ……」 歯痒さが律を襲う。剥き出しにされた牙。大いに震えた声。 刹那、律の拳が飛ぶ。血飛沫が床に飛び散り、奏はそこで受け身を取った。 「ふざけんじゃねぇよっ!! 人をコケにして楽しいか!? 俺はお前の弟だ! 出来損ないでも、お前と何ら変わりねぇ人間なんだよ!!」 「っ……、……」 「たまたま父上達に見込まれたのはお前かもしれねぇけど、俺だってやれば出来る! お前がそのチャンスを全部奪って行ったんだ!!」 衝動的な感情は、抑制を忘却させる。罵倒に連なり、何度も降り降ろす足蹴り。奏は抵抗なく、身を屈めるだけ。まるで打楽器の激しい演奏のような音が掻き鳴らされる。 だが、血反吐を吐いても奏は無抵抗であり、律は焦燥した。 このままじゃ、兄を殺してしまうのでないかと。 だが、止まらないのだ。この怒りは、積年の恨みは、今晴らさねばーーと。 「死ね、さっさと死に腐れ!! お前さえいなきゃ、俺は何だってやれたんだっ!!」 「……は、っ……」 「壊してやるっ……! お前のその顔が、俺と同じこの顔が一番憎たらしいんだよ!!」 息荒々しく響いた怒声。それは、最後の一撃に力を込める為の掛け声にも聞こえた。顔面に威勢良く振り下ろされる踵。 奏は諦めたように目をぎゅっと瞑る。けれど、顔面に激痛が走ったのは兄の方ではなく、弟の方だった。 「父、上……?」 鬼のような形相で、奏の目の前に立つ柾。 奏ははっとし、律を探すかのように上半身を起こした。 すると、柾の後、壁に凭れ掛かり、止まらない鼻血を両手で抑え、身を震わす律がいた。 柾が奏に背を向ける。鬼将軍と恐れられた父親の目が、律を一心に睨(ね)めた。そうして、自分の方へ一歩を進めた父親への恐怖に、律は思わず失禁する。 「止めてください、父上っ!!」 だが、次の一歩を奏が止めた。柾の大きな足にしがみつき、懇願する。その顔は、余裕がまるでない、本来在るべき奏の姿だった。だからこそ、なのか。柾は怒りを煽られた気にしかならなく、蝿を追い払うかの如く奏を蹴り落とした。 「っ、すみません、ごめんなさい、すみませんっ……。 ごめんなさい、ごめんなさいすみません、ごめんなさい、 殴らないでくださいっ……痛いからっ……僕が悪かったです。 ごめんなさい、申し訳ありません。許してくださいっ、」 狂った機械の如く、律が頭を抱え、踞りながら言葉を並べる。何の謝罪なのか。親子なのに、それらしいものは何一つ感じられない光景。 柾の爪先が容赦なく、律の顎を蹴り上げる。宙に舞った血飛沫。そうして律の髪を鷲掴みにし、すかさず拳を加える父親の姿に、奏の顔が歪む。 響き渡る殴打音。辺りに立ち込めた尿と血の異臭。律は気絶したのだろう。声が聞こえず、霞んだ視界から見えたのは、人形のように微動だにしない弟の身体。 震えながらも握った拳。自分は、弟のヒーローになると決心した。だからこそ、一番愛しき存在を幾度となく壊すこの男は、“父親”ではなく“敵”なのだーーと。 咄嗟に手にし、思い切り割ったコップ。その破片を血が滴る程に握りしめ、柾の背へと飛び込む。罪悪感なんてものは生じる隙もなかった。奏の身体に、父親の血がばしゃりと降り注ぐ。 「ほう……」 柾の顔が歪んだ。背をざっくりと斬られたのにも拘わらず、痛みを感じている様子はない。 寧ろ、自分の視界越しに映る奏の表情に、何処か懐かしみを感じ満足げな表情を浮かべていた。 「そんな顔をするようになったのか?」 挑発にも似た父親の態度に、奏は笑った。普段の、何一つ変わらないような、余裕ある表情でーー 「これからも修行に励め。これ以上の失態は許さんぞ」 ぽん、と。大きな手のひらが、奏の頭を擽る。 そうして柾が去った瞬間に、奏は緊張を解くように溜め息を吐き、安堵した。 ふと、手にしたボール。二、三回ダンクして、律の前へと置く。優しく触れ、愛しそうに撫でた弟の頭。 「また、俺っちと遊んでくれ……なあ、律ーー」 その光景を、奏の笑顔を、意識が朦朧とする中で律はしっかりと見、記憶に刻んでいた。 その時は理解が追い付かなかった。けれど、それは確実に律の傷となり、理解が追い付いた頃には膿んでいく。 間違った優しさが、螺旋を描くように闇へと向かって行くのだ。
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