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 雪のふりそうな、重い雲が重なりあっている空を、よく覚えている。きっと夜は雪がふるよ、と隣にやってきた航太郎が言い、甘えるようにもたれかかってきた、その重みも。 「練習、ちゃんとしたか?」 「うん。こないだも先生にほめられたんだよ、カズくんまたきいてくれる?」 「いいけど、それなら仮面ライダーの歌とかひいてくれよ」 「そんなのないよ、もう」 「コタ、なにか弾きたい曲があんだろ?えーと、なまえ忘れたけど」 「もーっ、何度も言ったのにどうして忘れちゃうの?僕の夢はね、いつかオーケストラと一緒に、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾くこと。いい加減おぼえてよ」 「ちゃ…こん…?だーっもうややこしいな、おぼえられっかよ、そんなもん」  なあ、何か弾いて。そうだ、こないだから練習してるあの曲、すっげー好き。  おれのおねだりに、航太郎が立ち上がってヴァイオリンを顎の下にあてた。弓を引きはじめると流れてくる、ゆったりとした、美しい旋律。目を閉じ、うっとりと聴き入る。 「この曲は覚えた。エルガーだろ」 「それは作曲家。曲名は、『愛の挨拶』だよ~」  演奏が終わったので、立ち上がってめいいっぱい拍手をした。航太郎が優雅にお辞儀をする。  笑いあって、畳の上を転がる。ホットカーペットの上には、ふたりして飽きてしまったパズルが散らかっていた。12歳程度、とかかれた難易度の高いパズルだったが、航太郎は興が乗れば2時間ぐらいで完成させてしまう。  おれはいつも、その隣ですげえな~、と歓声を上げているだけだったけれど、両親はおれのことも、神童といわれた航太郎のことも、分けへだてなくかわいがり、愛してくれていた。運動神経がいいおれには武道や運動をさせ、頭がよくて芸術的感性に優れていた航太郎には、音楽や、絵画を習わせた。  航太郎のヴァイオリンは才能があるらしく、両親が専門の先生をつけようか、と盛り上がっているほどだった。週に一度のレッスンは必ずおれが送っていき、そのままおれは近くにある合気道の道場で練習をして、終わったら航太郎を迎えにいって一緒に帰る。そういう決まりができたのは、当時「どうみても美少女」のような顔をしていたおれたちを守りつつも、自立させるために、両親が考えたことだった。両親が送り迎えをするのがふつうのような気もするが、母親いわく「いつまでも親が守ってくれるわけじゃないし、来年から小学校に入るでしょう?あなたたちは男の子なんだから。得意不得意を補い合って生きなさい」とのことで、おれは腕っ節をみがいて変質者やいじめっこからか弱い航太郎を守ることに、何の違和感も覚えなかった。 「カズくんは、騎士みたいだよねえ」  その日も、お揃いのマフラーと手袋をした航太郎とふたり、手を繋いで歩いていた。由紀市は比較的治安のいい街だが、海沿いに住んでいたので冬は海風があって、それなりに寒い。 「なんだよ、きしって」 「も~、本を読まないから、そんなことも知らないんだよ」 「だって本なんかおもしろくねえもん。ねむくなるし」 「絵本なら好きなのにね」 「本なんかいくらよんだって、強くなれねえ」 「ふふ、カズくんらしい」  騎士っていうのはね、馬にのって、主や王族を守るために働く戦士のことだよ。騎士道っていうのがあって、礼儀正しくてかっこいいんだ。 「へえ~!」 「鎧をきてるんだよ、すごいよね」 「かっこいいじゃん。よし、おれは航太郎をまもる騎士になってやる」  航太郎がとなりでぎゅっと手を握り締めた。普段はおれよりもずっと大人びているのに、不意に不安そうに甘えてくることがあって、そんなときおれは自分が兄だということを自覚し、身が引き締まる思いがした。  海沿いの道は交通量が多くて危ないから、いつもおれが歩道の、車道側を歩いていた。曇った空の下に広がる海は、波がしろく泡だっていて、いつもよりも少し暗い色をしていた。海猫が、空を浮かびながら遠ざかっていき、数羽が後につづいていく。そのうつくしい形に見とれながら歩いていると、航太郎が立ち止まって腕を引いた。 「カズくん」  数歩先に進んでから振り返ると、航太郎は見たこともないほど真剣な顔でおれをみていた。決意と、それに今になってみれば、どこかあきらめのようなものが浮かんだ顔だった。どうした、と声をかけるまえに、航太郎が続けて言った。 「今夜、僕がいなくなってから、庭の木の根本を掘り返してみて。そこにノートをいれておいたから。いい?必ずだよ。おかあさんとおとうさんが、やめなさい、どうしていまそんなことをするのってしかるかもしれないけど、必ず掘って。そのノートがあれば、向こう10年間はみんな、元気でいられるはずだから」 「コタ、おまえ、なにいって…」  駆け寄ろうとすると、航太郎は泣き出しそうな顔で笑った。 「約束だよ、カズくん。あとね、」  肩に手を置かれる。どうした、またいじめられたのか、と問いつめる前に、航太郎が耳元で言った。 「だいすき」  声を上げる暇もなく、強い力で突き飛ばされた。  轟音と共に突っ込んできたトラックが、ガードレールを突き破ってきて崖に突っ込み、白煙を上げて止まった。  足ががくがくした。尻餅をついていた姿勢から、なかなか立ち上がることができない。あまりの音に両耳は手でふさいだようにうまく聞こえなくなっていて、のどがカラカラに乾いていた。  ぐしゃぐしゃに潰れたトラックの下から、何かが漏れ出てくる。声をだそうとしても、ひゅうひゅうとかすれた息しか出てこなくて、四つん這いのまま、さきほどまで航太郎がいた場所へと近づく。指先がその液体に触れた瞬間、大声で叫んだ。  それは、車体の下敷きになった航太郎の血だった。 **** 「どうしてもだめだったんだ」  泣いているおれを慰めるためなのか、頭をなで、やさしく抱きしめながら、航太郎が言った。 「はじめに予知したのは、カズくんがあの場所で車にはねられる、ということだった。1回目は、道を変えた。僕のようすがおかしいと、カズくんすぐに気付くから。なるべく普段通りにすごそうとおもって、道をかえてバイオリンのレッスンに行った。そしたら、……工事現場の足場が崩れて、カズくんは落ちてきた鉄パイプが頭に当たって死んでしまった」  僕の目の前で。  航太郎の声がわずかにふるえていて、おれは体を離し、目の前にある顔をじっとみつめた。眼の縁に光るものが見えて、なにもいえずに眉を寄せた。航太郎は、眼をそらして座席にもたれ、思い出したくない、という風に頭を振った。 「2回目は家にこもってでないようにした。レッスンなんかさぼっちゃえばいいと思った。外にでなければ、なんの問題もない、そう思ったけど」  お母さんが買い物に行ってる間に、家に強盗が入ったんだ。僕はトイレに行っていて、戻ってきたら、カズくんは包丁で刺し殺されていた。 「3回目なんて、すごいよ。その日は絶対神奈川からでようと思って、おもいきりわがままをいって、2日前からアメリカの叔母の家に行ってた。カズくんが住んでいたところだね。僕は一日中手をつないで、それこそトイレの時すら、絶対そばから離れなかった」 「…よく、いうこときいたなあ、おれ」  声がかすれていた。目の前で3回も家族が死んだ航太郎の気持ちをおもうと、かける言葉なんて見つからない。どれほどつらかっただろう、苦しかっただろう。 「すごくいやがっていたけど、ぼくがあまりにも本気でいうから、途中から何か察してくれてたよ。ぼくらはいつもそうだったでしょう?全部を言葉にしなくたって、わかりあえた」  そういえば、そうだったな。小さい声で返事をすると、航太郎はこちらをむいて、うれしそうに笑った。 「うん。…でも、だめだった。ずっと眠らないわけにはいかなかったから、僕らは叔母の家の客室で、手をつないで眠っていた。朝起きたら・・・窓が空いていて、カズくんの姿がどこにもなかった」  性的いたずら目的の誘拐だった。三日後、近くの川で、カズくんの遺体が見つかった。  淡々とした口調の中に、航太郎の後悔や哀しみがにじみでていて、おれは黙って手を握った。そして「ありがとうな、何度も助けようとしてくれて」と伝えてから、浮かんできた疑問を投げかけた。 「どうして、その未来だけはうまく読めなかったんだろう?」  そう、それまでは何度も未来を読み、回避できたのに。どうしておれの死だけは、回避できなかったのだろう?  おれの言葉に、航太郎が眉を下げ、悲しげな顔でゆっくりと首を振った。 「ぼくもそれが疑問だった。でも3回失敗して、わかったんだ。ーーカズくんは、多分、あの日死ぬ運命だった」  だから、運命をねじまげて、未来をかえるにはあれしかなかったんだ。と航太郎が言った。 「ぼくが死ぬことで、不確定要素が産まれて、カズくんは助かる。ーーもう、それしかなかった。そうするしかなかった。ごめん、ごめんね。傷つけてしまって。背負わせてしまって」  一緒に生きたかった。でもなにひとつ背負ってほしくなんか、なかったのに。  涙が一筋、航太郎の頬を伝って落ちる。 「僕は幸せだったよ。カズくんと兄弟に生まれて、本当に毎日幸せだった。楽しかった」  切なそうな笑顔は、昔と全く変わらなくて胸が苦しい。  ふたりで毎日一緒にいたこと、海辺で遊んでいたこと、夜は手をつないで眠ったこと、すべて思い出になんかできなくて、いまそこにあるかのように目の前に迫ってくる。海のにおいや、毛布の感触と一緒に。 「おれだって、航太郎と一緒にいられて幸せだった」 「なら約束して。もう自分を責めたりしないと。僕は、自分がやりたいようにやっただけなんだ。カズくんに生きてほしかったから、幸せになってほしかったから。お願いだから、そのことだけは覚えていて」  そういって、航太郎が小指を差し出してくる。昔よくやった、指切りの合図だった。 「僕はもういかなきゃ。でもその前に、残りの力をカズくんにあげるよ。そうすれば、うんと昔まで飛べるし、戻って来られる」  小指をひっかけて指切りげんまんをしてから、航太郎はにっこりと笑った。 「どういう、ことだ」 「信じられないかもしれないけど、僕らの能力は本当はひとつのはずだったんだ。未来を読んで、過去に戻る。その力はね、全部一人の人間に与えられるはずだった。でも僕らは、偶然ふたつに分かれてしまった。それによって力が弱く、不完全なものになった」  おれの顔によほど混乱があらわれていたのだろう、航太郎が苦笑した。 「いまはわからなくてもいいよ。でも大切なことだからよく聞いてね。僕の力をカズくんに渡すよ。そうすれば、一度だけ、うんと昔に戻ってから、ポイントまで未来に飛ぶことができる」 「ポイントって」 「保大入学の時点だよ」 「――なんで…?」 「千葉さんを救いたいんでしょう?」  喉がひりつく。声が出せないでいるおれに、困ったような顔で航太郎が笑った。 「夏樹くんとは記憶を共有してるからね。いい?失敗したら、カズくんはもう過去から戻ってこられない。だから、千葉さんが人を信じられなくなった日に戻って、修正しなきゃいけないんだ。1日でも間違えたらアウトだよ、未来は変わらない。それに覚悟も必要だ。修正した世界では、カズくんが星野さんに出会えるとは限らない。誤差が生じるからね。変えた過去がどの程度未来に影響するか、それは誰にもわからないことだから。愛する人を失って、それでも、千葉さんを救えるとは限らない。天文学的な奇跡で全てうまくいったとして、星野さんに再会できても、彼はもう、カズくんのことを覚えていないんだよ」  限りなく勝率の低い賭けをしようとしていることぐらい、自分でもわかっている。  それでも、変えたい。 「……何もせずに終わるぐらいなら、命が尽きるまであがいてみせる。千葉を救って、未来を変えて、成一にもう一度会ってやる、運命なんかクソくらえだ。全部曲げて、限界だって超えてやる」  体の奥から、自分でも思わぬほどの情熱が湧いてくる。負けてたまるか、屈してたまるか、戦いもせずに。魂に火がついたかのように、力がどんどん湧いてくる。  そんなおれを見て、航太郎が嬉しそうに目を細めた。 「それでこそ、カズくんだ。強くて優しい、僕の誇り」  くさいことを平然と言うものだから、照れくさくなったおれは拳を作って、軽く航太郎の胸を叩いた。すると航太郎も拳を作り、おれの拳に軽くぶつけてきた。バカみたいにマイブラザーとかマイスイートとか言って何度か同じことを繰り返し、目を合わせて笑った。 「ああ、もう行かなきゃ」  肩をつかまれ、あ、と声をあげる。唇がかさなり、何かが流れ込んできたのを感じた。あたたかい、エネルギーの塊のようなものが唇を通じて体の中を通り抜け、温度を感じた瞬間に離れていく。 「だいすきだよ。またいつか生まれ変わって会える日を、楽しみにしているから」  待ってくれ、まだ、話したいことが山ほどある、そう叫ぼうとして、伸びてきた腕に抱きしめられた。愛情のあふれた、力強い抱擁だった。その背中を抱き返し、涙をこらえて、小さい声で囁く。 「おれも、だいすきだよ。また会おうな」  さよならなんか言わない。何年先になっても、きっとまた会える。  背中を何度も撫でながら、これまで長い間抱えてきた苦い後悔と罪悪感のメーターが、がくんと目減りしているのを感じる。怒りや悲しみを忘れまいと、抱きしめて、刻みつけて生きてきた。でも、もういい。  忘れないけれど、自分を責めることはもうしない。  航太郎が命をかけて救ってくれたこの生を、とことん燃やし尽くしてやる。
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