act.18

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act.18

 ノートに到着すると、先方の担当者・久保内隆が定光を出迎えてくれた。  年齢は40代半ばで小柄な純日本風の風貌の男だったが、英語とフレンチ、ドイツ語がネイティヴレベルで話せて、ラテン圏の言葉も多少なら駆使できるという多彩な男だった。  前回のショーン・クーパーセカンドアルバム制作の折も、久保内が陣頭指揮を執って全体の仕事を回していた。  久保内の仕事はどこかプロダクションマネージャーの仕事に通じるものがあり、今思えば、とてもやり手の凄い人なんだなぁと定光は思った。 「ご無沙汰しております」  定光が頭を下げると、ニコニコと笑いながらロビーまで降りてきた久保内は、定光に握手を求めてきた。 「いやぁ、久しぶり。"カシス"の時以来かなぁ?」  久保内はおっとりとした口調でそう言う。  定光も久保内の手を握り返して、「はい。あの時はお世話になりました」と再度頭を下げた。  ノートがメインで扱っているアーティストはむろん邦楽が多くを占め、半年前には滝川が"カシス"というガールズバンドのMVを撮影する仕事を請け負った。その際に定光もプロダクションマネージャーとしてその仕事に関わり、久保内とも数回顔をあわせる機会があった。 「その後、カシスはどうですか?」 「お陰様で順調に売れてるよ。滝川君のジンクスは本物だね」  エレベーターで打ち合わせ室のある三階上がりながら、久保内はゆっくりとした口調でそう返してきた。 「それはよかったです」 「今回もよろしく頼むよ。定光君はてっきりグラフィックの仕事はしなくなったんじゃないかって思ってて。でもまぁダメ元で山岸さんに掛け合ってみてよかったよ」 「こちらも、声をかけていただいて光栄です」  定光がそう答えると、久保内は定光の方を振り返り、にっこり目を細めて笑顔を浮かべると、「ショーンがどうしてもって言ったんだよ」と言いつつ、定光の腕を軽く叩いた。  定光の隣で密かに富岡のテンションが上がりまくっているのがわかる。  打ち合わせ室に入ると、室内にはノート側のスタッフが男女一名ずつと、テーブルの上にショーンの新しいアルバムに関する極秘資料が並んでいた。 「一先ず、資料を見てもらってていいかな。地下のスタジオにいるショーンを呼んでくるから」  久保内がそう言ったので、定光は目を丸くした。 「え? いらっしゃるんですか?」 「そうそう。丁度今来日しててね。それに合わせて定光君にも来てもらったんだよ」 「ウッソ! スゲー!」  思わず反射的に富岡が声を上げ、定光は富岡の太ももをバチンと叩いた。 「す、すみません……」  身体を小さくして謝る富岡に、打ち合わせ室にいたノートのスタッフ全員が笑う。 「まぁ、ショーンに関しては、どんな人もそういう反応を示すから、気にしないで」  すみませんと頭を下げる定光に、久保内はそう言い残して、一旦打ち合わせ室を出て行く。  定光は富岡を睨みながら、「本人が来たとしても、変な声上げるなよ」と言うと、富岡は「死んでも声を出しません」と頷いた。  部屋に残ったスタッフ二人が、また笑い声を上げる。  とはいえ、定光もいきなりのショーンとの再会に、多少緊張した。  前回会ったのは、ジャケットに使用した写真素材の撮影時とセカンドアルバムのプレスが終わった後に軽く挨拶をした程度で、メインの仕事に入る前までは主に久保内とやり取りをした。  今回のように、仕事が始まる前から本人に会って話ができるとは、考えてもいなかった。  やがてガチャリとドアが開く音がして、あの印象的な赤毛に彩られた華やかな笑顔が部屋の中に飛び込んできた。 「Hi! Mitsu!」  ショーンは両手を広げて、ハグをする体勢で部屋の中に入ってきたが、一瞬定光が見つけられず、視線を泳がせた。  定光はハッとする。  そういえば、前回会った時は濃い髭面に黒縁メガネという姿だったから、今の定光がわかるはずがない。 「ミスター・クーパー、お久しぶりです」  定光は慌てて立ち上がって、ショーンに近づいた。  ショーンは定光の声は忘れていなかったのか、すぐに定光の方に身体を向けたが、笑顔半分で怪訝そうな表情を浮かべ、何か早口でペラペラと喋ると、定光を手で指してきた。  久保内が真ん中に立って、「定光君、ヒゲはどうしたの? って言ってるよ」と通訳してくれる。  定光は頬を赤らめながら、「いろいろと事情がありまして、ヒゲとメガネは卒業しました」と答えた。  久保内の口からそれを聞いたショーンは、やっとハグできるとばかりに定光を抱き締め、改めて間近で定光の顔を覗き込んできた。 「ソッチ ノ ホウガ イイネ」  ショーンが再び花のような笑顔を浮かべ、グーと親指を立てる。  その意外に流暢な日本語に、今度は定光が驚いた。 「ミスター・クーパー、日本語、話せるようになったんですね」 「スコシ」  ショーンが親指と人差し指でジェスチャーする。 「ミスター・クーパー ダメネ。ショーン デ OK」  同い年なんだからと言わんばかりに、ショーンが定光の脇腹をパンと叩く。  その親しみやすい仕草に、思わず定光も笑顔になった。  ショーンは久保内が引いた椅子に腰かけつつ、またも定光を見て英語で言った。 「そう言えば、定光君、CMに出ていなかった?って訊いてるよ」 「あ、ああ。TVGのCMに……」 「Oh, yeah!」  ショーンが両手を叩く。 「アメリカで見たよ。凄く美しくて、繊細で、心に残る映像だった。とても感動したよ。映画を見てるみたいで、まるでCMじゃないみたいだった。まさかあの青年がミツだったなんて、驚きだよ。全然気がつかなかった。だってヒゲもじゃの顔しか見たことなかったし」  久保内が、あのCMを撮ったのは定光君の同僚で、とても才能のあるディレクターなんだと説明すると、「前の時はその人、僕の仕事せずに誰の仕事してたの?」とショーンが大袈裟に茜色の瞳を引ん剝いた。  打ち合わせ室の中に和やかな笑い声が起こる。  ショーン・クーパーは世界が認めるカリスマアーティストだったが、本人自体は非常に飾り気のない、気さくな若者だった。だが、醸し出すオーラは半端ない。  定光の隣に座る富岡は、余りに圧倒され過ぎて、声を出せないどころか呼吸するのもままならない、といった様子だった。  一方ショーンは、テーブルの上に身を乗り出して、定光の瞳を覗き込んでくる。 「目はブルーじゃないね???」 「ああ、あれはカラーコンタクトを入れてました」 「ああー。ブルーも似合ってたけど、本当の瞳の色もキレイだね。明るい夕焼け色みたいで。早い時間の夕焼けがミツの瞳の色で、時間が過ぎていくと僕の目の色みたいになっていくのかな」  久保内を介して、テンポよく会話が進んでいく。  久保内は日本語に関してはおっとりと話すが、英語は早口でリズミカルに話す。まるで別人格のようだ。 「前のアルバムジャケットが本当に素敵だったから、今回も絶対にミツじゃないとイヤだってごねたんだ。ワガママ言えるのは、スターの特権だし」  ショーンはそう言って、ウィンクをする。 「僕に金色のネバネバをぶっかけるだなんて暴挙をしてくるような奇才と一緒に仕事ができるなんてチャンス、そうそうないからね」  ショーンはそう続けて、コミカルに肩を竦ませた。 「あ、あの時は本当にすみませんでした……」  定光が思わず冷や汗をハンカチで拭うと、また和やかな笑い声が沸き起こった。  前回のジャケットは、茶室に和装で正座するショーン・クーパーに、真横から金色の液体が降り掛かるその一瞬を切り取った写真がメインに使われたもので、画面の背景空間は日本の侘び寂びが表現された渋さがあったが、それとは対照的にショーンと金色の液体だけは闇から浮かび上がる濡れたような光沢の画像処理がなされていた。  ショーン・クーパーの艶やかな肌と深紅の髪色が非常に美しく見える、静かでストイックだが、非常にセクシーで情熱的な艶も感じさせる絶妙なアルバムジャケットだった。  その陰影と濡れるような色彩の使い方がカラヴァッジョの絵画のようだと例えられ、海外では高い評価を受けた。  しかも、ジャケットの中はディスクを除けると、頭から金色の液体に塗れたショーンが全開の笑顔を浮かべている写真が見えるような仕様になっていて、ショーン特有のユーモアもうまく表現された一枚に仕上がっていた。 「今回もミツがなんて言ってくるか楽しみにしてる。僕って意外にMっ気があるんだ。どんな過酷な条件も耐えてみせるから」 「いや、まいったな……」  ショーンの中でどうやら定光は、S属性の人間だと思われているらしい。 「それで、今回のアルバムのコンセプトだけどね……」  ショーンは一転してシリアスな表情になると、デモ音源を流しながら、歌詞の書かれた紙のコピーを指差し、熱っぽくアルバムについての思いを語り始めたのだった。  定光が帰社したのは、就業時間をとっくに過ぎた夜の7時頃のことだった。  仕事話もさることながら、久保内を介してショーンといろいろな四方山話をしているうちに、こんな時間になってしまった。  聞くところによると、ショーンにはあまり同世代の友人がいないらしく、定光とはウマが合うらしい。「今度仕事抜きで、食事に行こうよ。これ、社交辞令なんかじゃないからね」と誘われて、最終的にお開きになった。  ── でも食事に行くとなると、言葉が通じないのはどうすればいいんだろう……。久保内さんをプライベートでひっぱり回すわけにもいかないし……。  そう思った挙句、「あ、新がいるじゃん」と呟いた定光だったが、滝川のことを思い浮かべて、また陰鬱になってしまった。  いつもの通りにしていればいいのはわかっているのに、気持ちがついていかない。  きっと自分は、いつも以上のものを滝川に期待しているんだ、と定光は思った。  自分が意外に恋愛に関して"欲張り"であることを実感させられることになろうとは。  定光は一旦グラフィック制作部に行き、部長の横谷に今日の打ち合わせの報告をした後、今後の進行について明日の午前中に話し合うことを確認して、映像制作部のオフィスに戻った。  パソコンを立ち上げて、昨日やりかけていた仕事の終いをつけるため、手帳と睨めっこしながらデータを打ち込んでいった。  途中、スタジオから帰ってきた村上が、段ボールを抱えてオフィスに入ってくる。 「あら! ミツさん、こっちに戻ってたんですか?」 「ああ。前の仕事の報告資料がまだ仕上がってなくて……」 「そっかぁ。じゃそれが、プロダクションマネージャーとしての最後の仕事、ですかね」  村上が床に段ボールを置きながら、少し寂しげにそう言う。  定光は「え?」と思わず声を上げて、村上を見上げた。  まさか村上も、今回のことをそういう風に捉えているとは思っていなかったからだ。 「俺、最後の仕事だなんて思ってないぜ」  定光がそう言うと、村上が目を丸くしながら椅子に座った。 「え、でもミツさん、ショーン・クーパーのアルバムデザインするんでしょ?」 「ああ、するよ」  それを聞いた村上が、ウエ〜と身体を椅子の上でずりコケさせた。 「いやぁ〜ミツさん、その仕事とこっちの仕事の両立は無理だわ」 「そ、そうかな?」  定光は思わず口を尖らせたが、村上はムリムリムリムリと大きく右手を左右に振った。 「ただでさえ新さんの面倒見るのが大変なのに、その上撮影の段取りとか出演者への交渉とかしながら、グラフィックの制作もしようっていうんでしょ? どんなに時間があってもできませんよ。もともとミツさん、器用なタイプじゃないし。寝る時間なくなっちゃいますよ」 「じゃ俺が完全にグラフィック制作部に抜けたら、一体誰が新の面倒を見るんだ?」  定光がそう言うと、村上は定光を見て少々複雑な表情を浮かべた。 「ミツさんがノートに行ってる間に新さんがここに来て、当面は由井さんに担当をお願いしますって珍しく頭下げてましたよ。別の専属を指名するまでの中継ぎでって、笠山さんも言ってました。ま、俺としては、例え今の下っ端から出世すると言われたとて、あんな怪獣の専属マネージャーなんて、絶対に指名されたくないですけどね」  それを聞いた定光は、ガタリと立ち上がった。 「それってつまり……、俺を切るってことか?」  村上は、ぽかんとした顔つきで定光を見上げる。 「切るっていうか……。え? ミツさんは、グラフィック制作部に晴れて"栄転"ってことでしょ?」 「栄転?」 「そ、栄転。あれ? 違うんですか?」  定光は宙に視線を泳がせた。  確かに、グラフィックの仕事に復帰できるのは、定光の密かな夢であった。  今回の仕事は、最高の条件でその夢が叶えられた形となる。  確かに、誰もが定光の夢が叶って良かったね、と思ってくれているのだ。  ── でも、それをなぜこうも素直に喜べないのか……。  いやそれよりも、周囲の認識が、定光は完全にプロダクションマネージャーの仕事を辞めて、グラフィックデザイナーとして復帰すると捉えていることの方が驚きだった。  定光の中では、今回のショーンのアルバムだけをなんとかプロダクションマネージャーの仕事と両立しながら行って、後はまた滝川専属のプロダクションマネージャーに戻ると思っていたからだ。  定光は、泳がせていた視線に力を込めると、こう宣言した。 「俺は、プロダクションマネージャーの仕事を辞める気はない」  定光はそう断言すると、パソコンもそのままにオフィスを出た。  上の者達に直談判するつもりだった。  だが、笠山も山岸も既に帰宅した後で、もう一人のプロデューサーも同じく帰宅していた。  一瞬、個人の携帯に電話をかけようかとも思ったが、酷く感情的になっている自分が電話なんかでうまく説明できるようには思えず、やめた。  そして社内を走り回って肝心の滝川の姿を探したが、滝川も先に帰宅したと教えられた。  よく考えると、定光が帰社した時、デスクの上にタクシーチケットがあった。  滝川が先に帰宅したい時には、滝川の自費で買ったタクシーチケットを定光のデスクの上に置くのがこの頃の常だった。  定光は映像制作部のオフィスに取って返すと、村上の「ミツさん、大丈夫ですか?」という声にも返事を返さず、タクシーチケットを握りしめて、家に帰った。  だが家に帰っても、そこに滝川はいなかった。
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