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ゆえに。
神楽坂愛里の目の前には、枯れかけた植物のようになってしまった父親の姿があった。
愛里の父、清彦は一ヶ月前にステージ4という癌の進行度としては最高レベルに重篤な宣告を受けた。彼を蝕む爆弾は肝臓で生まれ、いまや全身で燻っているのであった。
十年後生存率5%以下――数字は無慈悲に愛里を現実という悪夢に突き落とす。
「愛里、ごめんなあ。研究が大事な時期にこんなことになってしまって」
清彦はそう言って申し訳なさそうな顔をした。
目の前の男はかつて愛里が大学に進むことすら反対していたのだ。それから五年経ったが、いまだに愛里を東京に行かせたことを後悔しているのだと愛里は思い込んでいた。
それはまったくの誤解だった。
清彦は、愛里が自分の信じる道を挫けながらも歩いていることを誇りに思っていた。愛里の活躍譚(たん)を聞いただけで欣喜雀躍(きんきじゃくやく)するほどに。
「大丈夫だよ。実験は仕掛けてきたから。また明日戻って再開すればいいの」
「俺は全然愛里のやっていることは分からんけど、それがどんなに凄いことか、大変なことかはよう分かっとるからな」
「うん、ありがとう」
清彦は気丈に明るく振る舞う。
白に塗り染められた牢獄のような病室には、外から冬の寒さが窓ガラス越しに音を立てずに忍び込んできている。窓の外すらも雪の白一色だ。
まるで世界が彩りをなくしてしまったかのよう。
「……」
多孔質な雪の結晶は音さえも奪う。
時が止まってしまったかのように無音。けれど、時は止まらない。それは不変。清彦に巣食う癌細胞は今も増殖を続けているのだ。
「じきに暗くなる。もう戻りなさい。お父さんは大丈夫やから。今日は村には戻らんと駅前のホテルに泊まるんやろ」
「そう。そのまま明日の朝一で帰る」
東京と愛里の故郷は片道で半日近くかかってしまう。次にここに来られるのはいつになるか。
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