明るい月の夜に

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 やがて、さらにひとつ、誰より用心深い足音が近づいてくる。この足音を聞くのも最後かも知れないと思うとセスの喉元にはそれだけで熱いものがこみ上げてきた。 「……セス」  足音の主はセスの姿を見るなり我慢できなくなったように駆け寄り、抱き締める。兄が安堵の表情を浮かべてここに現れたということは、本当に何もかもがうまくいったということなのだろう。兄弟は言葉もなくただ固く抱き合う。  だが、やがて思い切るようにスイはセスの体を離すと、背中に負ってきた重そうな袋をふたつ、性急に手渡してくる。 「万が一、神の元へ帰ったはずのおまえたちがここにいることがばれたら、何もかも台無しだ。早くここを離れた方が良い。これだけのものがあればしばらく旅には困らないはずだ」  それは、セスとクシュナンのための旅支度だった。ずっしりと重い袋を手にすると、いよいよ本当に兄や家族と離れるときがやってきたのだと実感が湧く。こんな別れ方をする以上もしかしたら——いや、おそらくセスはもう二度と生きて故郷の地を踏むことはないだろう。父とも母とも、兄とも会うことはない。 「泣いてはだめだぞ。それこそ掟破りだ」  スイはいつものように手を出し、セスの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。集落の男は決して泣いてはいけないと幼い頃から厳しくしつけられる。だからセスは兄の前では必死に涙をこらえるし、両目を真っ赤にしながらスイも涙を流しはしない。そしてスイは改まったようにクシュナンの方に向き直った。 「今思えば、父や私は間違っていたのだろう。弟を哀れむばかりで、本当の意味で守ってやることができなかった。本当はおまえのようなよそ者に可愛い弟をくれてやるのは面白くない。でも、おまえは罪深い儀式を、私にとっても心の重荷だった悪習を終わらせてくれたという意味では本当の〈神の使い〉だ。だから弟を捧げる。その代わりに、絶対に幸せにすると誓ってくれ」 「誓う。もしこの誓いを破ったときは今度こそ、おまえが俺の首を斬れ、スイ」  固く手を握り、ふたりは約束を確認する。  セスは最後に兄に感謝の気持ちを伝えたいと思った。だが、石板はもうない。だからクシュナンの手を取り、そこに文字を綴る。 「セスが、家族には本当に感謝しているし、集落を愛していると。だからこれからも人々が協力して、平穏な暮らしが続くよう祈っていると」  クシュナンがよどみなくセスの言葉を伝えてくる、その姿を見てスイは「まいったな」とつぶやいた。 「セス、おまえにはもう、俺と父さんが押し付けたあの重い石板も、石灰も必要ないのだな」  そう言われてセスも改めて、もはや自分の首にはあの石板がかかっていないのだと気づく。ふと右手に目をやると、いつだって石灰で白く汚れ、乾燥して痛々しくひび割れていた指先が、今は清潔で傷も治りつつある。セスはもうじき首にかかるあの重さも、指先のひりつく痛みも忘れてしまうだろう。
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