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「大人しく寝なさい」  耳を寄せた胸元から、低く甘い声が静かに響く。  寝ぼけたように見上げれば、ひどく穏やかな目があった。今夜はもう終わりだと言うような、珍しく眠そうな目だ。あなたが、この程度で満足するわけがないのに。 「明日は東京へ戻る。療養生活は終わりだ」 「わたしも?」 「ここが気に入ったのか? このまま残っていても構わないが」 「ずっとあなたと一緒にいられたから、こんな生活もいいなと思っただけです。場所にこだわりはありません。わたしも一緒に帰ります」 「思い出の土地なのだろう」 「子供の頃の話です。特に思い出があるわけでもないし、祖父母も家もない」  いつも、父の影に隠れ、存在感のなかった母。夏休みに佳澄と兄を連れてこの地を訪れると、ほんの少しだけ、母は明るい表情になった。  自分の実家だからなのか、厳しい父から離れた解放感なのかはわからない。その両方だったかもしれない。  夕暮れの海岸を散歩する。兄は波打ち際で足り回っている。母は佳澄の手を繋ぎ、危ないからと言って、兄と一緒に自由にさせてはくれなかった。  母は、父のように佳澄を気持ち悪いとは言わないが、特別に愛情をかけてもらった記憶もない。ただ、手を繋い砂浜を歩いたその温もりは悪くなかった。  兄が貝殻を拾って来る。たくさんあるよと笑って、一緒に行こうと言う。母はそれでも佳澄の手を離さない。佳澄は自分のものだと言いたげに、「だめよ」と言う。誰にも逆らわない、自分の意見を言わない大人しい母の、唯一のわがままのように。  あれはなんだったのだろう。わからないまま、嬉しいとも不思議とも感じなかった。ただぼんやりと、母の手を握り返していた。  感情の起伏が薄いのは、きっと母からの遺伝だ。父や兄と同じ、意思の力強さは受け継がなかった。  では、哲郎を想うこの激しいまでの感情はいったいどこから来るのか。  命を賭してでも、哲郎を追いかけようとしたこの抑えられない想いがなぜか、澪を殺してまでも手放したくなかった哲郎の感情と、繋がった。 「哲」  呼びかけたら、もう寝ろと言うように、片腕で頭を抱えられた。 「わたしは、ヤクザとは縁もゆかりもありませんが、わたしたちは似ています。わたしはあなたが思うより、自分が思うよりもずっと執念深く、嫉妬深い」 「それは脅しか」 「そう取られても構いません。あなたが澪を殺そうとしたように、わたしも何をするかわからない」  哲郎は、佳澄のくせ毛を指先で弄びながら、鼻で笑った。 「ヤクザを脅すとは、本当に面白い男だな。お前は」 「笑わないでください。わたしは本気なんですから」 「ああ、わかっている」 「いつかあなたを殺します。今度は失敗しない」 「楽しみにしていよう。その時は迷わず一思いにやってくれ。お前のつけた傷が、痒くてたまらん」  今度は堪え切れずに、肩を揺らして笑った。
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