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名前を呼ばれてはっと目が覚めた。
顔を歪めた優樹が見えて、ああそうか、と納得した。
そして次の瞬間に、自分が何に納得したのか分からなくなった。覚えのある感覚。
いつも通りのそれについて考えることをやめた夜々斗は、もう覚えていない苦しみから呼び戻してくれた優樹に感謝を伝えた。
夜々斗自身がもう覚えていない感情のせいで優樹に心配をかけてしまうことが申し訳ない。
無力感に苛まれている、そんな顔をさせたくないのに。本当にもう大丈夫だから。
溢れていたらしい涙を拭ってくれた優樹に笑うと、ほっと小さく息をついたのが聞こえた。
全部忘れているはずなのに態々夢に見てしまう自分が酷く汚いものに感じる。
────ごめんなさい。
言葉にすると余計に傷つけてしまうことがわかっているから、心の中でそっと呟いた。
ソファに座ってホットミルクを一緒に飲む内に眠りに落ちた優樹を起こさないように、夜々斗はすっかり冷めたマグカップの中身をじっと眺めて思い返した。
久しぶりにあの頃の夢を見たのは、きっと今日訪れた喫茶店が原因だった、と。
水族館に行った日に年甲斐もなくはしゃいでしまった自分の姿を見て、また出かけようと誘ってくれたのがちょっと気恥ずかしかったけれどとても嬉しかった。
学園でのお茶会が懐かしいという話題から、チーズケーキが美味しいという喫茶店に連れて行ってくれた。
夏休みという時期もあってか平日としては少し混んでいるようだったけれど、ゆったりとしたBGMが気分を落ち着かせてくれる店の雰囲気を二人ともが気に入っていた。
ただ、注文した飲み物を届けてくれた店員の持つトレイに、プラスチック製のカップに入ったシロップが見えてしまったのがいけなかった。
色は透明だったし、蓋にも星なんてプリントされていなかった。でも”シロップ”という言葉が浮かんでしまった時点でひどく動揺した。
すぐに目を逸したけれど、それに気づかない優樹ではない。そうなった原因もわかっているはずなのに、何もなかったように柔らかい声で「夜」と呼んで安心させてくれた。
そう、あれは本当に普通のシロップで、僕のことをよーちゃんと呼んでくる人もいない。
だから大丈夫だとわかったはずなのに、どこかで引っかかっていたんだろうか。だから夢なんか見てしまった。
誰も何も悪くなかった。優樹もあのカップが出されないようにチーズケーキには合わないグレープフルーツジュースを注文してくれていて、店員は他のテーブルに運ぶものを一緒に持っていただけ。
ただ、そんなものに振り回される自分がおかしいだけ。
自分のような存在がいなければ、何でもない日常のひとコマに過ぎない。十分すぎるほどに配慮してくれていた優樹が気に病む必要はどこにもない。
それでも、今後またあの店に行くことはないんだろう。
そこまで考えて、何て自分は面倒な存在なのかと夜々斗の口からため息がこぼれた。
手の温度が移ったマグカップをローテーブルにそっと置いてから、ゆっくりと背もたれに体重をかける。
再び優樹の眠りを妨げることのないように息を潜めて、窓からの微かな光に浮かび上がる優樹のまつ毛を目を凝らして数えはじめた。
まだまだ夜は長い。
夢の中でわからなかったことはやはり今でも、理解はできていない。
ただ、兄の性癖を歪めてしまうような何かが自分にあったのだろう、と考えている。
強いて言えば、成長してしまったことがいけなかったのかもしれないが、あの頃の兄の言動の記憶からそう推測しているだけで、具体的に何がいけなかったのかはわからない。
今となっては昔のような関係に戻りたいという思いはなくなっているし、縁を切るまでやり過ごしていけばいい。
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