第二話

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 その日、ヴェルノンの街並みに太陽がどんどん近づいて、やがてその光が弱まっても、ももは男の戸外制作をただ見つめていた。  会話など一切なく、目の前の大男がその逞しい腕で絵筆を握るのを一心不乱にその目に刻む。「終わりだ(セ・フィニ)」と筆を置く頃には彼女の喉はカラカラになっていた。  時間にすると、かなり長い時間だったにちがいない。だが、不思議なことに、それはパリからヴェルノンまでの列車よりもはるかに短く感じた。  風そよぐ草原、光の綾を揺らす大いなる水面、中世の趣を残したヴェルノンの街並み、そして、流れゆく空。男の手によって描かれるセーヌ川畔の風景は、目に映るものよりも深い印象と感銘を彼女に与え、深く冷たい水底に眠っていた女を太陽のさんざめく水面まで引きずりあげた。  それだけではない。単一の青や白だけでなく、黄色や赤、時には淡墨を用いて表現されていく様は、ただ美しいと思う空に新たな一面をもたらした。  パリ十三区、トルビアック。パリのアジア人街にあたるそこに構えたアパルトマンの一室に、ももは滞在している。  目ぼしい観光地がないこともあって比較的穏やかな地区ではあるが、その他地域と同様、夜中のサイレンは恒例でもある。昨晩も、多分にもれずそうであった。だが、ジヴェルニーから帰ったももの耳にはふしぎとそれらが一切届かなかった。  シャワーを浴びる間も、居間でぼうと宙を見つめている間も、あの光のカーテンをまとった画家とその絵を、まぶたの裏に描いていたのだ。  夜が明けても、昨晩の余韻は残ったままだった。彼女は、分厚いガイドブックをすべて放りだして、昨晩よりも軽い鞄片手にアパルトマンを出るとサン・ラザール駅からル・アーヴル行きの列車へと乗った。
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