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兄貴の彼女(司視点)
「ねぇ、あなた要の弟の司くん?」
塾の帰り、僕は「saion」というカフェにふらりと寄っていた。そこは僕が付き合っている高梨が、ついこないだまでバイトをしていたところだ。
以前、ガラス越しに僕は塾の帰りいつも高梨に見とれていたのがきっかけで僕らは付き合うようになった。まあそのいろいろ……は置いといて、彼がバイトしていた時には入ったことが無かったそこに、高梨が辞めてから時々行くようになっていた。
ここにいたんだと思うとなんか懐かしい。いや、別に高梨と別れた訳でもない。毎週高梨のマンションにお泊りしてる。
そうじゃなくて、
塾の帰りに高梨が働いているのを見るのが僕は好きだったんだ。白いシャツをきっちり着て、黒いエプロンを腰で履いて、てきぱきと働く高梨は本当に綺麗だった。男に綺麗なんておかしいけど、確かに綺麗だったんだ。にこにこと笑いながらそつなく客をさばく姿は本当に。
今じゃそれもかりそめの姿だと分かってる。僕に見せる本当の高梨は、天使みたいな綺麗な外見のくせして内面はとんでも無いエロ悪魔だ。
でも平日はほとんど話しも出来ない。目で追って、時々視線をかわす程度だ。寂しいなんて言うとガキみたいだし、男らしくないと思いながらここでカフェラテを飲む。週末、マンションに行けば高梨は同じように作ってくれるだろう。ずっと上手いカフェラテを。
高梨が作るのと微妙に違う味のラテを飲みながらぼうっとしていた僕は、女の人に肩を叩かれた。
「……僕は司だけど。あなたは?」
僕の正面に回ってきた人はショートカットが良く似合っていた。奥二重の目はちょっときつく見えがちだけど、笑顔になると右にエクボができるおかげで急に人懐っこい顔に見える。つまりかなりの美人さんだ。歳の頃は名前の出た、僕の兄貴とどっこいくらいの二十四、五歳に見えた。
「わたし、大里 美沙。要から聞いたことある?」
おおさと みさ――そういえば頻繁にホテルに泊まってる彼女の名前が「美沙ちゃん」だった。
「あ、兄貴の彼女……さん?」
僕の言葉に目の前の彼女が口先で笑った。
「彼女? あたしの事そう言ってんの、要? ああ、ここ座っていい?」
指差した僕の前の席にさっさと座ると、美沙さんは店員にコーヒーを頼んだ。
「僕と兄貴ってあんまり似てないのに良く分かりましたね」
そう……僕と兄貴は似ていない。僕がチビでガキっぽい顔なのは母親譲り。兄貴の要は背も高いし男らしい体つきだ。目も細めで見た目はまさにリーマンって感じだが、性格はかなりいい加減だ。規則すれすれの綱の上で、わざと平衡を保つための棒を持たないようなやつ、それが要なのだ。僕と要が兄弟なんて外見を含めて、今まですぐに分かった人なんていなかった。
「見たことあるもん。昔ね、写真じゃないけど。君って変わらないよね」
「どういうこと……ですか?」
どうせ僕がガキっぽいと言ってるんだと思って語気を強めて聞くと、美沙さんは怒らないでよと笑った。
「昔、彼のスケッチブックを要がトイレ行ってる間に勝手に捲ったことがあってさ、そりゃあ一杯描いてあったわよ。寝てる顔とか、くしゃみしてるのとか」
僕の前で美沙さんがごくりとコーヒーを飲んで、「熱いっ」と文句を言った。
「あたしと要がホテルで一晩中何してるか知りたい?」
突然の言葉に僕は吹きそうになって、いそいでカップを受け皿に戻す。そんな事、決まってるじゃないか。ふいに僕は高梨との行為を思い出して体がぼっと熱くなった。
「ふふふ、ごめん。顔赤くしちゃって可愛いわね。要の言う通り、あなた可愛いわ」
美沙さんはふふふと笑うが僕はバカにされているみたいに思えて笑顔になれない。
「要はね。あたしで欲求不満を解消してるのよ。だけどあたしはそれでもいい。あいつが飽きるまで付き合うつもりだったんだけどね」
彼女の話に僕はどうしたらいいのか、おろおろしていた。彼女の話っぷりに良い話になる予感がしない。美人さんなのに何だか一緒にいて楽しくないのだ。
「知ってる? あいつ芸大に行きたかったのよ。あたしと、要は高校の同級生でね、美術部で一緒だったの。あたしはダメダメだったけど要は賞とかバンバン取ってた。絶対そのまま絵描きになるか、そっち方面に行くと思ってわ」
「え、要が絵描いていたの?」
美沙さんの話にいつの間にか僕はカップの中身が冷えるのも忘れて聞き入っていた。兄貴が絵? 知らなかった。そんなの全然知らなかった。
「急に俺、経済学部に行くわ。そう言って、部も辞めちゃってさ。卒業して音沙汰なしだったのに、一年前合コンでばったり会っちゃって」
彼女の話の中に出てくる兄貴は僕の知っている要じゃなかった。要が見せたい姿じゃないんだと思うと急にまた居心地が悪くなる。
「あ、あの僕、帰らないと。この事僕に喋って良かったんですか? 兄貴から僕何も聞いて無いし」
ところが、立ち上がった僕の腕を美沙さんがぐっと握ってきて僕は動けなかった。
「要は、あたしの事を利用してるだけなの、彼は……」
美沙さんの声が途中で途切れた。何を言いたいんだろう? でも、きっと要の知らない所で他人から聞くことじゃない。僕は握られていた手を振り払った。
「お金、ここ置いていきます。さようなら、美沙さん」
後はもう後ろを見ないで店を出て行った。
一体なんだ?
何を言いたかったんだ? 気になるけどなんだか聞きたくも無かった。聞くなら本人から聞きたい。なりたいものなんか無いって言ってたのに。要の七年前に一体何があったんだろう?
家に帰ってくるともう十一時を回っていて電気も消えていた。テーブルの足に蹴躓いてしまって僕は文句を言いながら冷えた皿の上にあった肉巻きを手づかみで口に放り込んだ。
そこでパチッと音がしていきなり明るくなったと思ったら、要だった。
「あれ、今帰り? 電気つけりゃあいいのに」
風呂上りなのか肩にかけたバスタオルで頭を拭きながら、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出してそのままごくごく飲んでいる。
「それ、みんなも飲むんだからコップに注げよ」
「なんだ、母さんみたいなこと言うなよ司ちゃん。牛乳はこうやって飲むのが一番なの」
ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜる兄貴の手を僕は振り払う。すると、要は僕の手にあった肉巻きをぱくりと口に入れた。
「あーっ、僕のじゃないかっ。お腹すいてんのにっ。アホ、バカ」
「んー、タレの具合がいいんだよな、母さんの肉巻き」
僕の指についたタレまで舐め取ると「なぁ?」と同意を求めてくる。
「バカ兄貴、おまえ犬かよ。僕のおかずを遠慮なく食いやがって。そういや、今日要の彼女に会ったぞ、美沙ちゃん」
掴まれていた指が離れて兄貴の表情がさっと変わった。
「なんで、おまえと会うんだよ」
「知らないよ、僕は塾の帰りに声をかけられただけだもん」
「何言われた?」
両肩を掴まれて僕は椅子に押されるように座らされる。
「なんだよ、恐い顔して。別に何も」
「嘘つけ、今日実は美沙と喧嘩したんだよ。くそっ。あいつ、なんだって司のとこになんか」
あとの方は独り言になっている。
「あのさ、要って絵が描きたかったの? 何で芸大に行かなかったんだ?」
「その……話か」
うーんと言いながら「親に聞かれたくないなぁ。俺の部屋で話すよ」兄貴は掴んでいた手を離してすたすたと歩き出した。
「僕、さっとシャワー浴びてくるから。寝ないで待っとけよ、要」
「ああ、おまえ耳の後ろも洗えよ」
「うるさいっ、僕は小学生じゃない」
兄貴の広い背中を一瞥して今更ながら七歳の違いを感じた。同じ家にいたはずなのに、僕はちっとも要の高校生の時を覚えていなかった。
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