シングルルーム

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シングルルーム

 若かりしころ、英語もろくにできないのに、ひとりでニューヨークを訪れた。  予約したのはブロードウェイにほど近い、安ホテル。観劇後にも歩いて帰れるという点だけが、魅力の宿だった。あくまでも旅の目的は、快適なホテルで優雅に過ごすことではなく、長年憧れの街であったNYの観光とブロードウェイ観賞だったから、やたらと軋む古いベッドも、お湯の出が怪しいバスルームも、大して気にはならなかった。  翌日は朝から美術館巡りをする計画を立てていたので、その夜は早々にベッドに入った。サイドテーブルに置かれた、無機質な黒い箱は、時刻がデジタル表示されたラジオ付きの目覚まし時計。それを、朝の七時にセットして。  鳴り響く電子音に目を覚まし、まどろみの中でアラームボタンを手探りする。指先が、目覚まし時計の上部にあるボタンを見つけ出し、アラームを止めるためにその突起を押し込むと ──  その手を、誰かに掴まれた。 (……ひぃっ)  瞬時に掴まれた手を振り払い、飛び起きた。薄暗い部屋。かろうじて室内が見渡せるのは、真っ暗では怖いからと、眠る前に小さな明かりを灯しておいた部屋の隅のライトスタンドの頼りない光のお陰だった。時計の表示は、まだ夜中の三時前であることを示している。なぜ、こんな時間にアラームが鳴ったのか。いやそれよりも、ひとりきりのこの部屋で、自分の手を掴んできた、まだ指先の感触が残るあの冷たい手は、いったい誰のものだったのか。サイドテーブルの下を覗いてもカーテンをめくっても、掴んできた手も、手の持ち主の姿も、部屋のどこにも不審者の姿は見当たらない。果たしてそれを安堵していいのか、見当たらないからこそ怖がるべきなのか混乱する。  サイドテーブルの上の時計も、シングルベッドが置かれた部屋も、眠る前となんら変わりがないように見えた。さっきの出来事は、もしかして夢だったのではないか。そう思いたかったが ──  何かに掴まれた右手の甲が、みるみる赤く腫れていった。   じくじくとする痛みと得体のしれない恐怖に震えながら、シーツを被って朝を待った。  枕元で、ぶつぶつと呟く誰かの声が聞こえてくるような気配がしたが、幸いにも英語はろくにできなかったので、その呟きの意味は分からずに済んだ。右手の腫れと痒みは三日ほど続いたが、幸い痕も残らなかった。  以来、目覚まし時計を止める際には手探りではなく、ちゃんと目を開けてそこに何もないことを確認してから、止めるようにしている。  
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