79人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ
1 長堀川
長掘川の両側には、材木を扱う卸問屋が軒を連ねている。川に浮かんだ丸太を店の並びに沿わせて積み上げ、柱材に加工しなおした順にさらに庭側に積み直されていく。
あまりの手際よい職人たちの一連の無駄のない動きに、見とれる通行人が立ち止まることもしばしばで、いやむしろ、半裸の逞しい肢体をちらり眺めようと押し掛ける町娘や後家の姿があとを絶たない。
さらにその女人たちを一目拝まんとする若者が集まってくるものだから、このあたり一帯の賑わいというものは、さながら祭りの余韻に似た空気というものを醸成していた。
人から放たれる、ややきつい臭いのなかに、新鮮な材木の匂いが混じり、あたかも悪臭を遠くへ追い払うように立ちのぼっていく。
当事、木材の産地は土佐や日向が中心で、この一帯は材木浜と称ばれていた。
大坂で材木の市を立てることが許されていたのは、ここ長堀と立売堀だけであった。
立売堀は、大坂の陣のおり、伊達政宗の陣所があったところで、もとは伊達掘とよばれたのだが、〈だて〉が〈いだち〉になり、さらに〈いたち〉へと変化していったらしい。
西長堀川に架かる橋がある。
白髪橋、といった。
ここは、土佐藩が材木の市をはじめたところで、土佐の国の中央に聳える白髪山から伐り出された材木が、船ではるばると運ばれてくるのだ。それで白髪橋。
このあたりを歩くたびに、おときはいつもある光景を懐かしく思い浮かべる。
物心つくかつかない頃から、おときはこの界隈でよく遊んだ。
隣にはいつも二歳上のお民がいた。材木浜で働いていたお民の父が、大鋸挽師だったからだ。
大鋸は、縦挽きの大きなノコギリのことで、身の丈以上の長い鋸身を使う。たとえば、襖一枚ほどの大きさの枠組みを竹でつくり、その一辺を鋸身にして、二人がそれぞれの端を持ち動かす。糸ノコを襖の大きさにしたものを想像すればいい。
大鋸でひいた木材のくずが、おがくず。大鋸屑、と書く。おときの記憶のなかには、おがくずが舞って、風に吹かれるさまが鮮やかなまでに焼き付いて離れない。
お民の父が威勢よく掛け声を発して、調子を合わさて大鋸をひく姿を、おときはお民と二人で一緒に眺めていたものである。
すると、必ず職人たちが、あっちへ行けと手で追い払うしぐさをする。それがまた面白い。おがくずが目を傷つけるのを心配していたのだろう。そう判っているから、また近寄る・・・追い払われ・・・キヤッと叫び笑いつつ近づく、この繰り返しだ。ここで、『仕事にならへん!』と、お民の父の怒鳴る声が響き渡る。その怒声すら、大鋸をひく調子合わせの合いの手のようであった。
お民の父は、すでに五年前に病死していた。
いま十九歳のお民は、親の伝手で材木問屋の日向屋で、材木の仕入れ帳管理をしている。いや、そのはずであった。
そのお民の行方がわからなくなったようだと伝え聴いたおときは、いま、材木浜の日向屋をめざして小走りに駆けていた┅┅。
おときは、寺島惣右衛門の一人娘である。
寺島家の本屋敷は天王寺にあった。代々、徳川幕府の御用瓦師を務めている。すなわち、公儀御用瓦師。
寺島家は、江戸時代初期には〈大坂の三町人〉とよばれた。三町人とは、この寺島家のほかに、御用大工の山村家、寒天を扱った尼崎家を指す。
もともと寺島家は紀州粉河で瓦を焼いていた。のちに読者も知ることになるはずだが、粉河は、根来衆や雑賀衆と関係が深い。根来衆といえば根来忍者、雑賀衆といえば鉄砲の製造と銃撃術に優れた者が数知れず、織田信長・豊臣秀吉に攻められて故郷を追われた。その一部が、瓦職人や護衛役として寺島家が雇用した┅┅┅と、ここまで書いておいてもさしつかえないだろう。
最初のコメントを投稿しよう!