彷徨う人 14

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彷徨う人 14

「さぁ、あんたはまだ少し休んだ方がいい」 「……実はまだ眩暈も酷くて、そうさせてもらおう」  信二郎が促すと、湖翠さんは自ら横になり静かに目を閉じた。そして俺のことを手招きした。 「夕凪……どこだ?」 「はい」 「悪いが、少しの間だけでいいから、僕と手を繋いで欲しい」 「……そんなのお安い御用です。湖翠さん」  どこか不安そうな湖翠さんの手を取ると、彼はふっと悲し気に笑った。 「ありがとう。恥ずかしいのだが、どうにも怖くてね」 「湖翠さんともあろうお方が、一体何を恐れているのですか」 「うん……目を閉じても明けても、世界が真っ暗で……たまに自分が何処にいるのか分からなくなるのだ。それにしても、せっかく夕凪に会えたのに、君の可愛い顔を見ることが出来ないなんて残念過ぎるな」  俺に話しかけながら、湖翠さんはウトウトと微睡みだした。  どうか……そのまま静かに眠ってください。  ひと時の安らぎを、湖翠さんにお与えください。  酷い現実は、もう忘れた方がいい。 「夕凪……お前、大丈夫か」 「信二郎……」 「俺は変な対応をしなかったか。大丈夫だったか」 「あぁ夕凪は頑張ったよ、さぁこっちに来い」  湖翠さんが寝息を立て始めたのを確認してから、俺と信二郎は庭に出た。信二郎の広い胸に抱かれ、淡い口づけをもらった。 「……辛かったな」 「湖翠さんは……もう全部忘れてしまっているようだった。だがあまりに都合のよいように解釈するのも悲しくて、泣けてしまう」 「そうだな……湖翠さんが探し求める相手はもう……今は」 「それは言わないでくれ」  そのまま俺は信二郎の腕を離れ芝生に膝をついて、墓石を抱きしめた。この石に刻まれた名前を指先で辿ると、すっと指先が切れて赤い血が滴った。 「おいっ大丈夫か。石に尖ったところがあったのか。消毒しないと」 「大丈夫だ。この位……あの人の無念を思えばこんなのはっ」  赤い血は生きている証。  あの人はもう血すら流せない。 ****  翌朝、湖翠さんの容態はだいぶ落ち着いていた。 「夕凪……すまないが、風呂を使わせてもらってもいいか。どうも躰がべたついて気持ち悪くてね。昨夜もしかしたら寝汗をかいたのかな」 「もちろんです。もしよかったら俺が湯を流しましょうか」 「悪いね。湯治場では介添の男に頼んでいたが……ん? あの男はどこに行ったのかな。僕は目が見えないから滞在中は確か……身の回りの世話をしてもらっていたはずだが」  介添えの男の裏切りだろう。湖翠さんがあんな目に遭ったのは……  まずい。湖翠さんに余計なことを思い出させては駄目だ。  だから慌てて話題を変えた。 「湖翠さんは宇治に来た事はありますか」 「いや、ないよ。京都は何度か仏事で訪れたことはあるのだが、本当なら夕凪に会いに流水と一緒に来るはずだったんだよ。もうそれは遠い昔の約束だが。そういえば昨日、流水の夢を見たよ」 「え……どんな夢でしたか」 「楽しい夢だった。夕凪と三人で庭掃除をしていたよ。落ち葉を山のように集めてね。そうしたら夕凪がどうしても焼き芋を食べたいというから、流水と顔を見合わせて笑ったんだ」 「焼き芋? ふふっ、俺が焼き芋を? なんだかおもしろい夢ですね」 「だろう? 」  湖翠さんは、もう大丈夫だ。  嫌な記憶を、優しい記憶で塗り替え始めている。  彼が寿命を全うするまでの時間は果てしないだろう。  流水さんのことだから、湖翠さんに今生で……いつまでも負担をかけたくないと願ったに違いない。 「夕凪、昨日も話したがここはいいね。君の住まいはとても落ち着くよ。なんだかとても馴染みのある人の匂いがするような、温かい場所だ」 「……ありがとうございます。さぁ……そろそろお風呂に行きましょう」
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