第1章 霧の先へ

1/23
110人が本棚に入れています
本棚に追加
/97ページ

第1章 霧の先へ

 やっぱり、信用するんじゃなかった。大人なんて。期待したって、結局いつもどおりに忘れたふり。遠藤歩はため息をついた。ほんと、約束を守らない大人も、教室の窓から眺める夏空が晴れているのも、クラスメイトが騒いでいるのも、まったく嫌になる。  だいたい、大人はずるいんだ。 「遠藤、嫌がらせされてるんだって? 先生は味方だからな。一緒に解決していこう」  一週間前、田中修二先生は自信たっぷりとそう話を持ち掛けてきたのに、ここ数日は約束が夢の中で交わされたみたいにちっとも話しかけてこない。今もほら。修二先生は教卓の前で夏季休暇前の郊外学習の説明をしているけれど、目はちっともこちらに向けられない。修二先生の中であの約束はもう終わったことになっているのだ。そうにちがいない。  とはいえ、修二先生だって初めから約束を破ろうとしたのではないはずだ。修二先生が先週末に、学校に乗り込んできたあいつの父親(お腹がバスケットボールみたいに膨らんでいる)と母親(やせ細った顔がきつねのよう)の応対をしたのは学年で知らないヤツがいないほど有名な話だ。きっとその席であいつの嫌がらせをやめさせるように働きかけてくれたはずだ。修二先生にちょっと思い違いがあったとすれば、あいつの父親は大企業の役員で、あいつの母親は市役所のお偉いさんで教育委員にも顔のきく、つまり交渉するには強敵だったということじゃないか。応接室の密室の中で何が話し合われたのかはわからないけれど、先生のお節介がまったくぱったりなくなったのはまさにその頃からだ。  修二先生にだって正当な理由があるのかもしれない。ただ、それならそうと、素直に言ってくれればいいのだ。つまり、「約束を守れそうにない。親が怖かったんだ。すまない」って――。  そうした弱さを見せようとせず、平然と先生をしていられるのは、やはり大人のずるさだと思う。  全開の窓は全開に開いていてどんどん熱風が流れ込んでいる教室は、すっかり暑くなっている。クラスメイトたちはすこしでも暑さから逃れようと、シャツをまくりあげ、下敷きをあおいでいる。  息苦しさを感じる暑さに、歩も水筒を取り出そうと屈んだとき、椅子の背に衝撃(しょうげき)を受けて前につんのめった。 「おい、遠藤。ホームルームが終わってもすぐいなくなんなよ。わかってるよな?」  嫌がらせの原因である“あいつ”――本田隆也がにたにたと嫌な笑顔を浮かべながら足を振り上げていた。修二先生は見てみぬふりだ。隆也は両親が偉いだけじゃなく、本人だって空手部のエースとして一目おかれていて、さらに学年を見回しても飛び抜けてガタイがいいから、だれも――先生だって逆らえやしないのだ。髪は威嚇のためか、トサカのように立てている。まるでニワトリだ。 「おい、聞いてんのかよ」  もう一度、腰が浮くほど強く蹴られた。歩は相手をせずに、一心に修二先生をにらみつけた。先生の説明を一言も漏らさず聞く模範的な生徒です、という態度を貫いた。だって今は説明の最中だ。私語は厳禁(げんきん)じゃないか――。  もちろんニワトリ並のオツムしかない隆也に道理が通じるはずがなくて、「無視すんじゃねえよ」と苛ただしそうに椅子を小突かれた。はずみで机が前の席にぶつかり、女子に迷惑そうににらまれた。僕のせいじゃないんだけど――。歩は前を向いたまま仕方なく――本当に仕方なく言葉を返した。 「僕はあいにく掃除当番に指名されてないし、待つ理由がないと思うんだ。だからすぐ帰るよ」 「いいから待ってろって。俺の方に用事があるんだよ。それともなにか、俺との友情は大事じゃないって言うのか?」  友情なんてアリの毛ほども感じたことないくせに、と歩は呆れた。  隆也が要求する“用事”には、思い当る節があった。隆也とその取り巻きたちが新しく覚えた空手技のサンドバック代わりを探しているのだ……。 「友情は大切だと思うよ。それがどんな相手でもね。でも、今日は残念だけど約束があるんだ。……ほら、友情は大切でしょ?」  歩が皮肉混じりに返すと、隆也はそうかよと不満そうに呟いた。後ろの席の取り巻きに何事かささやく姿を見れば、まだなにか企んでいるのだと容易に想像がつく。隆也は頭がニワトリだけれど、性格は蛇のようにしつこい……。歩は机の中に手を入れて、目的の物が間違いなくあるか確かめた。昼休みの間に突っ込んでおいたスニーカー。これを使って今年一番の作戦を遂行する。失敗は許されない……。  ホームルームは、課外授業の班分けがちょうどすべて決まったところで終わった(隆也とは班が分かれ、本当に残念だけれど友情を確かめることはなさそうだ)。クラス委員が号令をかけるため席を立った。歩はスニーカーの感触をもう一度確かめた。――いよいよだ。
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!