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プロローグ
ある朝のこと、矢野梓は母親に突然言われた。仕事をやめて、田舎の祖母のところへ行けと。
「どうせ大した仕事してないんだしいいでしょう。早いところ部屋を片付けなさい」
まるっきり興味のなさそうな顔をして言った母親は、立ち尽くす梓の足元に古くてボロボロのボストンバッグを投げる。
「それ使いなさい」
それから五日後、本当に田舎の祖母の家へ向かう電車に乗っていた。
実は少し楽しみにしていたのだ。祖母の家にきた記憶はそう何度もないのだが、しかし優しくしてくれたのは覚えている。
電車に乗る前に祖母の家に電話してみたら、耳が遠いらしくほとんど会話らしい会話にはならなかった。不安な気持ちは膨らんだが、家にいるよりずっといい。
待ち時間も合わせて半日以上かかって到着した駅は古びた駅舎に潮風が直撃するような海を見渡せるところだった。
長く座り続けてお尻がぺったんこになったような気持ちで屈伸し、駅を出るとロータリーの向こうにぱらぱらと飲み屋があるだけの小さな町だった。ここから歩いて一時間くらいかかるらしい。タクシーを使おうにもそんな金はなかったし、まずもってタクシーが止まっていなかったので歩くしかなかった。
親に渡されたレシートの裏に書かれた地図だけを頼りに道を歩いていく。
(こういうとき、みんなスマホで調べたりするんだろうな)
田舎に行くのにスマホはいらないだろうと親に解約させられたのだ。もとより連絡を取る相手なんてもういないのだからどうでもよかったが、今どきここまで親に管理されるのもおかしな話しだと今になって唐突に思う。
それもこれも、可愛がられる兄と、虐げられる妹こと自分が当たり前の家だったからだろう。刷り込みというやつだ。
(さて、この曲がり角だけど)
聞いていた地名の標識がある角にまできたのだが、地図ではその角に小屋があることになっている。しかし実際そこにあるのはソーラーパネルとそれを囲うフェンスだけだった。
「お嬢ちゃん」
声に振り返ると、がっちりした体格の良い日焼け顔の短髪の男が立っていた。なんだか少し困っているように、眉尻を下げているが、それでも絵になるような男前だった。
「迷ったのかい」
「……ここに行きたいんです」
手書き地図の書かれたレシートを渡すと、男は一目見るなり笑顔で顔をあげた。
「この角をあっちに上るんだ。小屋があったのは一昨年まででな、最近は空き地があればソーラーパネル置くもんだからわかりにくいんだよなあ」
ぺらぺらと喋りながら登る道を指し示す。
「あんた、ミキさんが言ってた孫の?鹿沼さんのところいくんだろう?」
鹿沼というのは祖母の屋号だ。
「はあ。お世話になっています」
じろじろ見られて恥ずかしくなる。履いてたジーンズは高校の時からずっと履いているものだし、シャツだって母のお下がりだ。
こんな田舎にこんな男前がいるなんて思いもしなかった。
「今ばあさんのところに持っていこうと思ってたんだ。あんたに預ける」
差し出された白いビニール袋にはリンゴが3つ入っていた。
「3つじゃ足りないか。これも持っていけ」
さらにビニール袋も渡された。そちらもずっしりと重く、覗くとそちらにはアジが三匹入っていた。
「どうも」
にこにこして見てきていた男は、もう一度あの道を行くんだと指差すと、来た道を引き返していった。
後ろ姿を見て、自分の周りにはいないタイプだと改めて思う。肉体労働をしている人なのだろう。梓はスーパーマーケットで働いていたのだが、同僚にも客にもあんな人達はいない。
どんな人なのか気になったが、とにかく今は祖母の家にたどり着くのが先だった。
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