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序
それはまあ、かつて見たことのないほど巨大なほころびだった訳さ。
そしてそのほころびは、やはり巨大な鬼の睛であり脣だった。あらゆるものを情緒なく呑み込む夜の淵のような黒目からは、無論のこと何の感情も読み取れない。感情と云うものが、一体奴には在るのだろうか、幾つもの光が輪となって、一定の速度で点滅をしている。
非道の睛。無慈悲の睛。屠るもの、圧倒的に屠るもののまなざし。そいつの本体を捕らえなくったって、ほんの隙間から覗いた片っ方の睛だけで十分に、まざまざと、判った。
誰もが戦慄をした。そのまなざしに、文字どおり凍てついた。これほどの存在を前にして、自分が為すべきことを忘却しない者がいるだろうか。いたのだ。唯一人だけ、父上様が。
皆がおののき立ち尽くすなかを、己が務めを果たそうと、父上様は我が身ひとつでほころびを繕いに行った。今ここで繕わなければ、誰も彼もあの異界の鬼に屠られて、世界は再び混沌と残酷の神代に引き戻される。だから。
けれども次の刹那、鬼は巨きくまばたきをして、その刃の如き酷薄な睫毛が、鋭く重なり合って父上様の全身を切り刻んだ。迸る血潮は遠く地上より眺めていた我々の頬にまでかかって、我々の言葉を根こそぎ奪った。我々は叫ぶことすら出来ず、果敢なく父上様が喰われるのを見つめていた。まるで遥かなる幻想のように。
俺はつくづく無能な奴だ。
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