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01◆7月1日・はじまり
「あら、ねえ、あの子」
「ん?ああ、隊長の後ばっか追っかけてる女だな」
黄昏時を彷彿とさせる、仄かなオレンジ色の照明に包まれた店内。実際の時刻は22時を回っている。
ここはピアノ曲のBGMが耳に優しい音量で流れる落ち着いた雰囲気の老舗バー。初夏の夜にはまだ肌寒い、冷房の効いた空間だ。
カウンター席で男女は琥珀色の液体が入るグラスを傾け、語らいより喉を潤すことに至福を感じながらプライベートな時間を過ごしていた。
筋肉質の大男とモデル並のスタイルを持つ女。共に30歳前後。
長身同士なかなか似合いだが、彼らにロマンスは存在せず仕事仲間にすぎない。
ボックス席の一番奥にふたりの視線が集まる。
そこには空になった数本のボトルをテーブルに並べ、シートに深く腰かけた20歳前後の若者の姿。
男物の服装で固めているが、女性であると認識済み。
名は確かシエラといったか。彼らの隊長のお気に入りだ。
しかしながらふたりを含む仲間たちにとって彼女の存在は疎ましいだけ。
自分たちと隊長をカタキと追う女だ。厄介者扱いの口調が物語る通り、優位な立場であれ再会を喜べるはずがなかった。
「しつこいわね、本当に来るなんて」
「勝ち目なんかねえのにな」
「ま、いいわ。とりあえずアナタ行ってきて」
ぐったり酔い潰れたシエラはワケのわからぬ言葉を連発しながら相席する茶髪の男に抱えられ店を退きそうな様子。ナンパでもされたのか、どう見ても他人同士。
両名での来店と察するが、例え男側に仲間がいようと場合によっては皆殺しにする気でカウンター席の男女はシエラを留まらせただろう。
光の加減か赤褐色の髪にも見える男の眼前に、大男オーウェンが立ちはだかる。
シエラを抱えた彼は顔の赤い己をかえりみず酔っ払いにからまれたと認識し、不快感も露にキッと睨みつけた。
たが見上げる自分の方が明らかに分が悪い。舌打ちを鳴らして無言での通過を決める。あっさり未遂に終わったが。
「おっと、悪いがその女のお持ち帰りはやめてもらおうか」
「何だよ、どけよ」
またも前方に壁を作られ男のイライラは最高潮。
酔いも手伝ってか気は大きくなり恐れ知らずの罵声を浴びせようとして、降ってきた声に一瞬で酔いを覚ました。
「腕と足、なくすならどっちがいい?」
第三者が勝手なギャップを感じるテノールで語り、おもしろそうにニヤリと笑う大男。けれど瞳に笑みはない。口角だけがわずかに吊り上がる。
仰ぐ男から酒気は消えて主観的判断が甦り、相手の言わんとする意味が正確に理解できた。背筋がゾッとした。
目の前の相手は力自慢の狂人。関わるも逆らうもNGと判断し、女との一夜の楽しみより自分の命を優先させた。
「わかった。帰る、帰るよ!」
「長生きできて良かったな」
オーウェンは嬉々と笑った。古典オペラに登場するどこか憎めない悪魔の笑みだった。
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