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第1話 ゲップ出し問題
飾り気の無い石造りの回廊を、一人の男が駆けずり回っていた。彼の名はエイデン。この城の主であり、若くして王に任じられるという、魔界きっての実力者だ。
しかしそんな肩書きなど、彼が抱える問題を前にしては気休めにならない。
「誰か、手の空いた者は居ないか! ニコラに火急の問題が!」
彼は美しい銀髪を振り乱しながら叫んだ。さきほどから一向に返事が無いと知るなり、その狂気は際限無く増し、終いには母を探し求める迷子のようにさえなった。
そうなれば威厳など何も無い。生き生きとした褐色肌は脂汗に塗れて、さながら病人のようだ。頭上に備わる勇壮な牡山羊のツノも、もはやお飾り同然だ。高貴な身分を保証してくれるだろう濃紫色をした絹のローブも、肩から汚水を被っているために台無しである。
総じて狂人、少なくとも貴族からは程遠い姿だと言えた。しかも絶対的強者だ。その荒れ模様に、並みの魔人であれば竦み上がってしまい、実際に下働きの面々は身を潜めてしまう。
「誰か助けてくれ! このままではニコラが! ニコラがぁぁ!」
嘆きが最高潮に達した頃、廊下の曲がり角より一人の女が現れた。ヌウッという擬音が似合うのは、彼女がメイドの中でも一際大きな身体をしているからだ。
「どうなさいましたエイデン様。随分と騒々しい」
メイドという立場でありながら、臆面も無く主をたしなめた。この強気な性質は、彼女に龍の血が混ざっている為であり、強者を前にしても怖じ気づく事はない。
このシエンナという名の少女は、特別に力が優れていたりはしない。容貌も桃色の髪に青白い肌という、比較的平凡な姿である。手の甲に残る数個の鱗と、頭ひとつ高い背丈だけが、誇りの所在を代弁してくれるだけだ。
「あぁ良かった。助けてくれ、シエンナ!」
「はぁ。今日はどうなさったのです?」
彼女は心得たものだ。何せこのような騒ぎは、今となっては日常茶飯事だからである。
「これを見ろ、ニコラが吐いた!」
ズイと差し出された肩からは、酸っぱい臭いが立ち込めている。吐瀉物(としゃぶつ)による汚れである事は間違いなかった。
「確かに吐かれたようですね」
「だからそう言ったろう、これは何か病を患ったに違いない! 急ぎ魔界より名医の派遣を……」
「いえ、その前に私が診ておきましょう。お医者様への連絡はそれからです」
「お前に医学の心得があるのか?」
「魔界に居た頃は託児所に勤めてました。ある程度は分かりますよ」
「そ、そうか。ならば付いてこい。そしてニコラの命を救ってくれ!」
シエンナは仰々しい願い事を聞き流しつつ、エイデンの背中を追いかけた。いくつかの角を足早に曲がると、中庭に隣接した大部屋へと辿り着く。
扉を開け放つと、中は武骨な内装ながらも、努力の跡が垣間見えた。その豪奢ぶりからは、主の愛がありありと浮かぶようだ。
メイドのシエンナにとって見慣れたものだが、湧き上がる溜め息を、腹の内に留める域にまでは達していない。
(可愛がるにしても、限度ってものがあるでしょうに)
四方は寒々とした石壁だが、大振りな暖炉が寒さを寄せ付けない。床もこの部屋は例外的に、草原を思わせる新緑色の絨毯が敷かれている。特級品なので、踏みつける足ですら心地よさに包まれる。これはもっぱら、赤子の転倒を恐れるが為だ。
他にも、山を成すほどのヌイグルミや物珍しい玩具に季節の花々と、言及すれば限りがない。それらは全てエイデンの私財で賄ったために、不平不満の噴出ばかりは免れている。
もちろん、呆れるかについては別問題だが。
「それで、御子様はどちらに?」
「ゆりかごの中だ」
ゆりかご、とは便宜上の言葉だ。部屋の中央にドンと置かれたベッドは特注品で、巨大すぎるが故に極めて重く、吊るして揺さぶる事が出来ない。大人が両手を伸ばして余るという代物に、月齢三ヶ月足らずの赤子が横たわるのだ。一瞥しただけで所在に気づけるはずもなかった。
「はいはいニコラ様、シエンナですよ。ご機嫌はいかがですかー?」
彼女は自身の年収すら上回る調度品に対しても、怯まずに足を踏み入れた。そしてベッドの傍に寄り、毛布を畳むように剥いだ。すると中からは、珠のような赤子が姿を現した。頭から布をきつめに巻き付けているのは、まだ首が座っていないためである。
「どれどれ、お熱はありますかねー?」
まずは体温。小さな額に手を当ててみる。次いで胸に抱きながら様子を観察した。親の心配など他所に、まん丸い瞳がニコリと微笑む。
「……大丈夫だと思いますよ」
「その程度の事で分かるのか!?」
「ええ、まぁ。吐かれたのは時間から考えて、ミルクを飲ませた直後。そうですね?」
「その通りだ。いつもより多めに飲ませた気がする。その後にゲップを出させようとしたら……」
シエンナは、残り僅かであった肩の力を抜いた。万が一の事態からは程遠く、予想の範囲内であったからだ。
「恐らく魔王様は、りきみ過ぎているのだと思います」
「それはおかしい。指からは出来る限り力を抜いているぞ」
「だとしても、陛下は尋常ならざるお方です。御子様にとっては強すぎるのかもしれません」
「むうぅ。しかし、それで床に落としたらと思うと……」
「では、力の要らない方法をお教えいたしましょう」
「まことか!? ニコラの為にも頼む!」
こうして、ゲップ出しのレクチャーが始まった。これまでの肩に抱いて背中を叩く手法から、抱っこ式に切り替えた。胡座(あぐら)の上に赤子を座らせ、左右にゆったりと揺らす。首の座らないうちは両手を添える必要はあるが、この方法であれば高所より落とす不安は無くなるのだ。
「いかがです? これならお力が抜けるでしょう」
「素晴らしい……。別の手段など考えもしなかった」
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