ある夜の私の話

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ある夜の私の話

夏の熱帯夜のことでした。 その日はあまりに寝苦しく、私は夜の街にふらふらと出歩いて行きました。 都会。都会は、光の洪水です。まるで、キラキラと光る水槽。その中で生きる私たちは、さしずめ、薄汚れた、光を求める愚かな魚でしょう。 自分を愚か者だと思いたくない私。結果的には光を求めるものよりも、ずっとずっと愚かで弱い私は、せいぜい自分の姿が霞まぬよう、暗い路地の中へ入って行きます。 入り組んだ道。黴びた板塀。弱々しく伸びる細く小さな草。蒸し暑い空気。私はその中を千鳥足で歩いて行きます。時たま私の上に降り注ぐ該当のひかりが、辛うじて私の存在を明かします。 水槽の上から、何か巨大な、大きな人が覗き込んでいるとしたら、私の姿を見てどう思うかしら。 ふとそんな事を思いました。 特別綺麗な魚ではないけれど、何となく一瞬くらいは目を止める気がするのです。 けれど、そんな妄想は一瞬でたち消えました。 ああ、その人はきっと私なんかより、この光景を凝視して、大きなライトで照らしだすわ。 そんな光景が広がっていたのですから。 その光景を照らす街灯の光はまるでスポットライトでした。魔法のように、私の視線はそこへ吸い込まれていくのです。 男が、人を殺していたのです。 男は虚ろな瞳で遺骸をジッと見つめていました。 美しい男でした。長い睫毛は頰に影を落とし、濡れた頰は雪のような白なのです。漆黒の髪は都会の夜空を思わせました。 男は私に気がつくと、私を真っ直ぐに見つめました。深い色の瞳でした。一見、無感情に思われるその瞳の奥には、どこまでも続く悲しみの色がたゆたっていました。 「どうして殺したの」 私はそう言おうとしました。けれど、実際に口から出たのは別の言葉でした。 「どうして悲しそうなの」 男はそれを聞くと、殺した男の頰をそっと撫で、そして口付けました。 「恋人を、殺したから」 掠れて、震えて、まるで子供の声でした。 男は死んだ恋人の髪をそっと撫ぜます。 「都会に呑まれたんだ。どこまでも倦怠になって、それで」 男は美しい顔を、恋人の胸に投げ出して呟くように言いました。 「殺してくれと言った」 路地裏の中で、その光景は異様な光を放っていました。好んで汚いこの路地にいる、本物の美しい魚。恋人を失って、悲劇が彼をより艶かしく見せます。 私は彼に近づきました。しゃがみ込んで、彼のこめかみをツッとなぞります。 「ねえ、この子あげる」 男は黙って私の方を見ました。 「…身重なのか」 私は小さく頷きました。 この路地。男が恋人を殺したところで、私はこの子を孕ませられた。そこに愛はなかった。 同じ場所で、深い愛が燃え盛っている。 「この子、知らない子だもの」 愛が育まれたら。愛無き場所から、愛が芽生えたら、そこに存在する愛は片方足りない。私から、めいいっぱい愛を与えられない。きっとそうよ。 私にはそれが恐ろしい。 「だから、だからね。殺してあげて」 男は静かに頷いて、傍に落ちている血まみれのナイフを慎ましやかな動作で握りました。 この一連の動作はまるで厳粛な儀式でした。 男は私に近づくと、私の腹を刺します。 赤ん坊の大きな泣き声が聞こえた気がしましたが、それは私の叫び声でした。 そして今、私は腹から赤ん坊を掻き出される痛みに耐えながら、この夜の事を語るのです。 夏の熱帯夜のことだった。 俺は激しく泣き続ける恋人の肩を抱いて、ふらふらとした足取りで、夜の中をあてもなく彷徨っていた。 「怖い、怖い…呑まれる、呑まれる…」 恋人は小さな声でぶつぶつと呟き続けている。 「大丈夫だよ。夜の光は何もできやしないよ」 俺の声は恋人の耳には届いていないだろう。なんの根拠もないのだから。 夜の都会の光は攻撃的だ。飲んだくれた大人、やさぐれた若者、そして、彼らの影に隠された寂しい子供たちがそれをより一層目立たせる。 まるで水槽だ。 そう思った。 昔飼っていた金魚。毎年地元の縁日に行くたびに何匹も何匹も買うものだから、水槽の中は金魚でいっぱいになった。玄関に置かれた、華やかな水槽。夜中にこっそり起き出して、懐中電灯で照らすと、金魚の表面がキラキラと輝いた。しかし、金魚の水槽を印象付けるのは光ではなく影だった。悠然と泳ぐ金魚たちの隙間をじっと見つめる。すると、水槽の底に虚な目で横たわる遺骸があるのだ。それは見つけると、途端に大量の金魚の群れにかき消される。まるで、知られたくない秘密を見せないようにするかのように。 俺たちは間違いなく水槽の中の影だと思う。身を寄せ合う俺たちを水商売風のギラついたドレスを着た女は不審な顔で見つめていた。千鳥足の酔っ払いは俺たちに罵声を浴びせ、煙草を吸う未成年者たちは中指を立ててきた。 居場所がない。息苦しい。これが都会に呑まれるということなんだろうか。恋人は彼らの言動に逐一反応し、怯えていた。 「寒い」 恋人がボソリと言った。 「ここを離れよう」 無駄だと分かっていても、そうしてあげたかった。 都会に呑まれるというのは、たった一人だけ、という不安感だった。誰と寄り添っていても、津波のように圧倒的な力で押し寄せてくるネオンが、ビル群が、人が、心を底冷えさせる。冷えた心は心臓のように身体中に寂しさを行き渡らせ、全身が冷たくなる。以前暖かかった恋人の掌は、今は死人のように冷たい。 「大丈夫、大丈夫だ」 恋人の肩を抱いて、ビルとビルの間の狭い道に入る。奥へ奥へと進んでいくと、しけた匂いのするブロック塀で道幅が狭くなってくる。塀は汚らしく黒ずんでいて、溝にベッタリと苔が生えている。陰鬱な雰囲気だった。 どこまで続くのだろう。 ふと不安になった。 この陰鬱がいつまでも続いたら、途切れなかったら。どうすればいいんだろう。 日の差さないこの路地は、都会にいるよりいいのだろうか。 前をジッと見ると、先が見えないほど暗かった、 「都会も、路地も、どこにいても寒い」 か細い声だった。恋人は俺の方を向いていたが、意識はどこか別のところにあるようだった。 「どこかに寒くないところがあるかもしれない」 確信のなさに語尾が震えた。 恋人の心は手遅れかもしれない。どこにいたって、本当にもうどうしようもないのかもしれない。 「もう、生きていたくない」 恋人は俯いて涙を流した。俺はその頭をそっと撫でた。 「ずっと辛い」 恋人は掌で顔を覆うと、その場にしゃがみ込んでしまった。 小刻みに震えている。嗚咽が悲鳴のようにこぼれ落ちて、俺の鼓膜を震わせる。 「殺して」 ふと漏れた恋人の声が嗚咽に覆われなかったことが憎らしかった。 「…どうして」 自分の手で恋人の命を奪う。その光景を脳裏に描くと、じっとりと汗が流れた。 「お願い…お願い…」 恋人は突然顔を上げると、俺の胸にしがみついてきた。縋り付くその手は激しく震え、懇願の切実さを露わにしていた。 「頼むから…殺されても、惜しくないから」 胸に冷たい液体がこぼれ落ちてくる。表面ではなく内側に。胸に顔を押し当てる恋人の涙が、胸の奥底に深く落ちていくような気がした。自分の心が恋人に感化されて、スッと冷たくなっていく。それは俺の心を鎮めていった。 「…一緒に死のうか」 無意識のうちに言葉が発された。 俺は恋人を街頭の下へ連れて行った。 「ここで待ってて」 そう言った瞬間恋人は俺の手を握りしめた。 「行かないで」 俺は薄く微笑むと、静かに恋人の手を引き剥がした。 「大丈夫だよ。戻ってくるから」 俺は元来た道を戻り始めた。 案外すぐにネオン街へ出ることができ、夢から醒めたかのような心地がしてぼんやりと立ち尽くした。けれど、恋人を残してきたことを思い出し、俺は手近な量販店へ飛び込んだ。 一人残された路地裏はどこまでも続く静寂に満ちている。 震える自分を抱いて、恋人をひたすらに待った。その間、ずっと都会の存在が、脳内でギラギラと乱反射していた。 都会、昔は大好きだったのに。 都会、どうしてそんなに冷たいの。 体が冷たい。冷たい。 ふと、足音が聞こえた。恋人が戻ってきたのだろうか。いや、恋人が向かって行った方向とは反対側から聞こえる。路地裏の中から出てきた音だ。 恐る恐る顔を上げると、この世のものとは思えないほど美しい顔立ちの男が、生気のない目でこちらを見つめていた。 男はゆっくりと一度瞬きをした。長い睫毛が重くて仕方がないというふうな倦怠な動作だった。 男が口を開いた瞬間、真っ赤な口内が見えて恐怖を感じた。野犬のような、狼のような、血生臭い赤だった。 「どうして、蹲っているんだ」 冷たい声だった。それは都会の冷たさによく似ていた。それで気がついた。この男は既に死んでいる。都会に呑まれて、生ける死体となっている。 「都会、に、呑まれそうで」 震える声はあまりに貧弱でか細かった。それでも男は私の声を拾ってくれた。 「死にたくて仕方がない。都会から逃げたくて仕方がない。でも、心は都会に呑まれている。そうだろう」 男の言葉がスッと体の強張りを解いていく。 「『都会』は、象徴。理不尽さと寂しさの。それでも魅力がある存在。暴力的に惹きつけてくる存在」 男の唇の滑らかな動きを、いつのまにか凝視していた。不意に、その唇は動きを止めて、柔らかな曲線を描いた。 「俺も、そうだった」 体の震えが止まった。男は無造作に頰に手を当ててきた。 柔らかなその手つきを恋人と比べたと言ったら、彼はきっと怒り狂うだろう。圧倒的な力を見せつけ、そして暴力的に抱きしめてくるのだろう。 頬を涙が伝った。その涙は暖かかった。その暖かさが男の手に触れたとき、男は火傷したように反射的に手を引いた。そして、ひどく失望した顔をした。 「暖かい…」 その失望を跳ね除けるように、目を力強く閉じた。男のその声が、発散された先から頑丈な弾丸となり、命を狙ってきたからだ。 懇願してから出なければならない。 息を一つ吸って、吐いた。路地裏の湿った空気が体に取り込まれる。 この男に僕を殺して欲しい。けれど、一つ条件を付けたい。 「恋人のフリをして僕を殺して欲しい」 失望が消えないままの表情の中に、男は怒りをわずかに加えた。 「死ぬ必要は、あるのか。お前は死にきっていない。お前は…まだ生きることが出来るんだ」 僕は静かに首を振って、袖で涙を拭った。 「生き地獄を知っているだろう…そうやって君は死んだまま生きているんだから」 漆黒の髪に触れると、男は肩をびくりと震わせ、一歩後ろへ下がった。 「触るな」 鋭い眼光が僕を睨みつけている。 「なぜ恋人のフリをしなければならない。なぜ、お前を殺さなければならない」 感情を押し殺した声が男の怒りを明確にしていた。 生きているくせに。 俺を利用しようとするな。 涙の暖かさが、狂おしいほど憎らしい。 そんな声が聴こえる。 僕は視線を下気味に、男と目を合わせないようにして、静かな動作でカーゴパンツを下ろした。 「こんな事をされても恋人が好きだった」 男は乱雑に切り取られた、男性器があった部分を冷たい目で見つめた。 「恋人に殺してくれと懇願したけれど、半分は本気で、半分はそんな事思ってもいない」 一つため息をつく。それは生温い温度だった。 「愛している。愛しているから恋人に殺して欲しい。だけど…その分憎らしいから、この手で、どこまでも残虐な殺してやりたい」 暴力に抑圧されてもなお恋人を愛している自分が情けなかった。結果として都会に呑まれようとしているというのに。 「愛しているし、愛していない。殺したいし、殺したくない。訳がわからないんだ。相反する気持ちが膨張して、僕を圧死させようとしている」 男は一歩前に出て、薄く息を吐いた。 僕は男の裾をそっと握った。 「僕が、ただ愛すればいい単純な恋人を演じて、そして、僕を殺してくれ」 男は俯いて、何も言わずに目を閉じていた。長い睫毛が、雪のように白い皮膚に影を落としている。 やがて、男は遠慮がちに僕の背中に腕を回した。 「わかった」 震える声。そこに混じる微かな幼さが、男をより魅力的に見せる。恐々と僕の顔を覗き込むと、男は目を閉じて僕に口付けた。 僕の冷たさとは比べものにならないほど、男の唇は冷たかった。その薄い唇は儚い氷のようで、僕の僅かな体温でさえ、男の体を溶かしてしまいそうだった。 「お前が芯から冷たかったら、命を奪うことなんて怖くないのに」 男の目の端から美しい雫が垂れた。 僕はそれを小指で受け止める。やはり、冷たい。 「このナイフは、自分を殺すためのものだった。もう暖かくなりはしない、自分を…」 男はポケットからナイフを取り出す。長く、折れてしまいそうな華奢な指には、そのナイフが無骨すぎるように思えた。 男は僕の顔を覗き込むと、目を少し細める程度のささやかな笑みを浮かべた。 「最後に、何か言って欲しいことはあるか」 僕は男の姿に恋人を重ね合わせて、静かに言った。 「全ての暴力は嘘だった…いや、僕自身の事を愛していた、と」 男は、恋人は、僕を強く抱きしめた。その強さの中には、冷たさで作られたかりそめの大きな優しさがあった。それは起きてしまった事実である暴力を氷の衣で包んでくれた。虚しかった。けれど、僕にはそれで十分だった。 「お前を愛していたよ」 鋭い痛みが背中に走る。 ああ、全てが終わる。 どくどくと血が流れ出す。意識が薄くなっていく。 静かに目を閉じていき、最後に見えたのは僕の作り出した恋人の幻影が、優しい笑顔を浮かべている姿だった。 俺はたった今殺した男の遺体を見つめていた。男は息絶えるまで恋人の名前を呟いていた。 その恋人はどこへ行ったのだろう。 そんな疑問はどうでもよかった。たった今自分が、人の体温を奪ったのだという自覚がじわじわと沸き起こってくる感覚に目眩がしていたから。 地面に血液が広がり、ブロック塀と地面の溝に溜まっていく。血液の匂いが充満する。 ふと、弱々しい足音が聞こえてきた。そちらを向くと、ひどく顔色の悪い女がこちらを見つめていた。 女は俺の顔をジッと見つめた後、ゆっくりと地面に横たわる死体に目線を移した。 女が口を開く。 「どうして悲しそうなの」 見た目の若さに合わない、老婆のような声だ。 どうして殺したの。そう言われると思った。けれど違った。 そうか、俺は悲しそうに見えるか。 その時、ついさっきの男との約束を思い出した。俺は、あの男の恋人であった。 俺は男の髪をそっと撫ぜた。 「恋人を、殺したから」 体温を奪ったことへの悲しみの理由を上手く言語化する自信がなかった。 「都会に呑まれたんだ。どこまでも倦怠になって、それで」 俺は男の胸に静かに顔を投げ出した。 「殺してくれと言った」 自分のことを話しているような気持ちになった。 俺は、俺自身を、何よりも殺したかった。 女はしゃがみ込んで、俺のこめかみを人差し指でツッと撫でた。 「ねえ、この子あげる」 何かに取り憑かれたような様子だ。突然声は若々しくなり、頰は僅かに紅潮している。 女の腹部を見ると、不自然に膨らんでいた。 俺は胸の内に不快なものが込み上げてくるのを感じた。 「…身重なのか」 女は小さく頷いた。 「私ね、ここでね、強姦されたのよ。それで、この子が出来たの。だから、この子知らない子なの」 女はおかしそうに笑うと、腹部に掌を当てた。そして自分を納得させるように小さな声で呟く。 「この子、知らない子だもの」 そして、女は不気味な笑みを浮かべる。 「だから、だからね。殺してあげて」 俺は自分の中の冷たさがますます広がっていくのを感じた。体温を奪った自分への嫌悪感と、この妊婦の狂気がそれを助長させる。 今、妊婦の痛みを考える余裕は無かった。 俺は静かに頷いて、傍に落としたナイフを慎ましやかに握る。そして、俺は妊婦の腹を刺した。 赤ん坊の大きな泣き声が聞こえた気がした。しかしそれは妊婦の叫び声だった。俺は腹を何度も刺し、そして切り裂き、中から巨大な肉塊を取り出した。未完成な人の形をしたとき、妊婦は絶命していた。赤ん坊になるはずだったものを静かに抱きしめて、俺はその場に膝から崩れ落ちる。 自分で自分を殺さないで、どうして他人を殺しているんだ。 肉塊は徐々に体温を失っていく。俺はそれが少しでも遅くなるように力強く抱きしめたが、自分の体温がそれを逆に冷やしていくようで、途方もないやるせなさを感じる。 いつまでも、妊婦の叫び声が耳の中に響いていた。 量販店に飛び込んで、真っ先に包丁のコーナーに向かった。目の前にあったものを適当に一本手に取ると、不意に別世界に足を踏み入れたような心地になった。 俺は今から恋人を殺すのだ。 不思議な高揚感にゾクゾクと手先が震えた。息が荒くなり、下半身が熱くなる。 暴力を振るって愛していると言えば、泣きそうな顔で無理に笑うあの顔がたまらなく愛おしかった。死を懇願してきたときのあの顔。一緒に死のうかと言ったときのあの顔。思い出すだけで、快楽を得られる。 呼吸を落ち着かせてレジに向かう。その途中に鏡があった。何の気なしにその鏡を覗くと、動きが止まった。 被虐趣味の矛先が自分に向かうのを感じた。 最大の快楽は何だろうか。自己愛だろうか。 自身の間違った愛の矛先を自分に向ける。その切っ先にかつてないほどの高揚感を抱かずにはいられない。 俺は手に持っていた包丁で、自分の喉を掻き切った。 あたりは騒然とし、女性店員が悲鳴を上げ、小さな少女が泣き叫ぶ。 気分がよかった。自身を虐げ、他人を苦しめている。 恋人のことは既に脳裏から消えていた。
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