プロローグ・鬼崎探偵事務所にて

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プロローグ・鬼崎探偵事務所にて

 各方面への新幹線が集結するおかげで賑わう大きな駅から、徒歩十五分ほど繁華街の入り組んだ路地を進むと、廃れた五階建てのビルがある。  地元住民も用がなければ近づかないそこは日中でも薄暗く、そこはかとなく人を拒絶する気配が漂っている。一見すると、とてもテナントが入っているようには思えない。彫られた当初は艶やかであっただろうビル名も、今は原型を留めておらず読み取れそうになかった。  錆びた正面扉をくぐり、十数年前の地震でヒビの入った灰色の階段を上ると、二階部分には表札のない扉がポツンと二枚存在している。その内の階段側、中の様子を窺い知ることができない擦りガラスの向こうは、一人の男の城だった。  ――ここは、鬼崎探偵事務所。  城主の男は褪せた黒の合皮ソファで長い足を大きく広げて座り、対面するソファで縮こまる女性依頼者も気にせず煙草の煙を吐き出した。  彼の長身を包む衣服の全て、革製の手袋までが黒いせいか、眩いばかりの波打つ金髪が目立つ。異国の血を匂わせる整った顔立ちは長い前髪に隠れ、美しいヘーゼルアイは一切の愛想を宿さない。それが追っているのは、たゆたっては溶けて消える紫煙ばかりだった。 「で?」  鬼崎が目もくれず興味なさげに短く問うと、女は受動喫煙への不満を示すように咳こんでから、膝に置いた手をしきりに揉んだ。 「ですから、結婚指輪を探してほしいんです。家中どこを探しても見つからなくて……」  今にも涙を零しそうなほど神妙な様子を一瞥する鬼崎は、彼女の嘘臭さに呆れていた。  普通、単なる自宅内の失せ物探しを探偵事務所に持ちこむだろうか。家探しの労力がいるなら家族なり友人なり、それこそ街の万屋を利用した方が断然低料金で済むはずだ。  それでも彼女が鬼崎の元を訪ねたのには理由があって、そしてその理由はまだ語られていない。少なくとも家族に言えない後ろ暗い動機であることは間違いないだろう。 「お前、誰の紹介でここを知った?」 「市議の松原先生が、後援会との集会でこちらの事務所のことを話されていたのを思い出して……失せ物探しが得意だと」 「またかよ……」  顔を合わせる度に事務所の存在を吹聴しないよう釘を刺しているはずだが、七十を過ぎた男はどうも耄碌しているようだ。市議会の重鎮という存在の影響力は大きく、勝手な安心感を得てやってくる依頼者は後を絶たない。  正直なところお世辞にも真っ当な商売をしていると言えない鬼崎にとって、事務所が単価の安い依頼で賑わうのは避けたかった。  だがしかし、松原の繋がりであれば依頼者を無碍に扱うこともできない。「地元住民のために」が口癖のインチキ市議が支払って帰る依頼料を思えば、渋々でも最低限の愛想らしきものを真似る必要があった。 「仕方ねえな……おい、手出せ」 「こうですか?」  女は鬼崎の舌打ちに怯えた様子を見せながら、手の平を差し出した。  すると二度目の舌打ちを鳴らし、鬼崎の膝が上下にカタカタと揺れ始める。 「裏返せ」 「す、すみません……」  生白く荒れを知らない肌を見下ろし、煙草の火を消した鬼崎は左の手袋を外す。そして反転した女の甲へ指先で触れた。  女が何かを言っているが、脳裏へ流れこんでくる情報を捌いている鬼崎には応える余裕がない。頭に繋げられたホースから強制的に水を注がれているような感覚は、溺れそうな苦しさに慣れると腹立たしいくらいだ。  眉を寄せ――瞼を閉じる。  破れかぶれの赤黒いトタン屋根を四方に張り巡らせたようなイメージの中は、手の平サイズの透き通った「記憶」で埋め尽くされている。見たくもないそれらへの嫌悪を堪える鬼崎は、彼女が求める記憶を見つけ、癖で舌を打った。  華奢な薬指から抜いた指輪を、女がドレッサーの天板に置く。彼女はその後ベッドへ乗り上げ、振り返って裸の男を手招いた。  女は意識して見ていなかったようだが、鬼崎は男の動向を余すことなく見続ける。節くれ立った固い指先がドレッサーを滑るフリをして、傍らのゴミ箱へとシルバーリングを食べさせた。 「もういい」  そのまま記憶を漁れば浅ましい行為の全容を見る羽目になると察していたから、汚い物から手を引くように指を離す。指先に残る温度と感触が気持ち悪く、ソファの座面にそれを擦りつけてから手袋を嵌めた。 「あんたの指輪はもう家ん中にねえよ」 「どういうことです?」 「ドレッサー横のゴミ箱に入った。収集日は確か……」 「……昨日です」 「ご愁傷様」  心のこもらない同情を形ばかりに投げかけ、次の煙草へ火を点ける。  青褪める女は悲壮感を隠さないが、わざとらしい慰めてアピールに応えてやる義理はない。今しがた見せられた記憶は彼女を黙らせるのに丁度よく使えそうだから、これ以上愛想を演じる気もなかった。 「指輪も見つかったことだし、さっさと金払って帰れ」 「……見つかってはいませんよね?」  薄らと水気を帯びた瞳が、鬼崎を恨めしげにねめつける。  前髪の隙間から女を見る鬼崎には、彼女が依頼者ではなく、もはや汚物に思えていた。 「探してほしい、としか言われてねえな」 「あなたは私の手に触っただけで、探してすらいませんよね。ゴミ箱に落ちたなんて……当てずっぽうなんでしょう。それに私はまだ契約書を交わしていません。不当請求じゃないんですか? いいんですよ、然るべき機関に相談しても」  女は澄まし顔で踏ん反り返る。  彼女の主張は事実正当だが、この程度の正論と狡猾さに屈するようであれば、この世に生きる価値などない。  鬼崎は身を乗り出すようにして膝へ腕を置き、シニカルに口角を上げた。 「旦那の弟のセックスには満足したか?」 「……え?」 「好きなとこに駆けこめよ。あんたの家庭は崩壊するだろうけどなあ?」  目を見開いて息をのむ女の顔から、あからさまに血の気が引いていく。家庭と悦楽のどちらも手離さない狡さが滲むそれは醜かった。 「旦那の出張中に義弟連れこんで、ただの阿婆擦れババアじゃねえか」 「なん、で、知って」 「松原のジジイは言ってなかったか?」 「何、を……?」  鈍感な女でも、漂う不穏な空気には気づけたようだ。くだらない見栄と欺瞞ごと口を閉じ、無駄と知らずに情けを求めて怯えたフリをしている。  圧倒的弱者でいることに慣れている女の表情をたとえ何時間見続けても、鬼崎にはそれを憐れだと感じるアンテナがないと言うのに。 「探偵の鬼崎は、人の記憶が視える――って」  囁き声が微かに煙る室内へ霧散した瞬間、女の顔が懐疑心と怒りに染まった。 「ありえない! あ、頭がおかしいんじゃッ」 「ちなみに」  暴言を遮った鬼崎は、指に挟んだ煙草の先で女を指した。 「指輪を落としたのは愛人だ。イイ思いだけさせてもらおうなんて、甘かったな?」  喉を鳴らして笑われる羞恥に耐えられなかったのか、女はバッグを掴んで立ち上がる。  鬼崎が煙を吐きながら「五万だ」と言えば、ブランド物の財布からいとも容易く万札が五枚吐き出された。 「口止め料ですから」  けたたましい音を立てて金をテーブルに叩きつけた女は、怒りによって顔を真っ赤に染め、事務所を出て行った。 「やっすい口止め料……二度と来んな」  壊れそうなほど強く閉じられた扉を睨み、そのままソファへ横たわる。火を消すだけの気力もなく灰皿へ煙草を投げ入れ、疲労を補うようにやってきた睡魔へ意識を委ねた。  だが入眠寸前の無防備で酷く心地いい微睡みが、勢いよく扉の開く音で散ってしまう。  鬼崎はこめかみに青筋を浮かばせ、気怠い身体を起こした。壁にぶつかってゆっくりと跳ね返る扉の傍には予想通り、妖艶な女が立っている。 「久しぶりね。ご機嫌いかが?」 「来るときはアポ取れって言ってんだろうが、吉川」 「いいじゃない、いつ来ても暇なんだから」 「そういう問題じゃねえだろ」  なけなしの一般論をぶつけてみても、吉川はどこ吹く風だ。パーマがかった長い茶髪を指先に巻きつけ、室内を見回しては「今日も煙い部屋ね」と赤い唇を尖らせている。  着用しているブラウスの胸元は大きく開き、タイトスカートには深いスリットが入っている。何度顔を合わせても信じられないが、これが警視庁の刑事部捜査一課に属するキャリア組なのだから、この国の平和が終わる日は近い。  吉川は上機嫌に鼻歌を奏でながら事務所へ足を踏み入れ、許可もなくソファへ掛けた。主の意向を綺麗に無視する態度には苛立つものの、言ったところで聞く女ではない。  鬼崎はまたもや煙草を銜え、快楽物質の分泌に頼った。 「で、なんの用だ」 「依頼に決まってるじゃない」 「なら人は連れて来るなって言ったよな」  吉川と共に入室してから、静かに応接ソファの斜め後ろで控える男を見遣る。一言も発さないから空気として扱う気だったが、依頼となると話は別だ。  見たことのない男は、鬼崎の舌打ちに表情も変えず頭を下げた。 「初めまして、天宮です」  威圧感を覚えるほど長身の男は見るからに体育会系で、スーツ越しでも体躯の逞しさがわかる。さっぱりと刈り上げられたベリーショートの黒髪は爽やかで、少し太めの眉は凛々しく男前だ。  しかし無駄に強い目力は鬱陶しく、無表情と警戒心を隠さない態度には愛想もない。不快そうに煙草の煙で白んだ室内を見回す視線には、不信感がありありと表現されていた。  鬼崎が何も返さないでいると、間を取り持つように吉川が手を打つ。 「今年度から私のバディなの。そろそろ紹介しておくべきでしょう?」 「必要ねえな」 「まあまあ。天宮、彼は鬼崎さんよ。この事務所の所長さんなの」 「……どうぞよろしくお願い」 「しねえ」  挨拶を遮っての拒否に眉を顰めたものの、天宮は文句を言わず口を噤む。  険悪なムードを切り裂いたのは、空気を読めるくせに読もうとしない女の微笑だ。 「それでね、今回の依頼なんだけど」 「誰が受けるって言った?」 「そんな冷たいことを言わないでちょうだい。お仕事がないと困るでしょう?」 「お前の持ってくる案件は疲れるし、面倒なんだよ。だからもう受けねえ。そこの木偶の坊連れて今すぐ帰れ」 「あら……困ったわねえ」  ちっとも困っていなさそうな顔で嘯き、吉川は右頬に手を添える。小利口な頭の中でどんなカードを切っているのかは知らないが、毎度のように押し切られてやると思ったら大間違いだ。  その内、女の視線がテーブル上に放置されたままの札へ固定される。 「ところでそれ、ちゃんと仕舞っておかないと駄目よ? お金は大事でしょう?」 「うるせえ。お前に指図される謂れはねえ」 「またそんなことを言うのね……いいの?」  続きを促すことすら腹立たしい。唇を引き結ぶ鬼崎がそっぽを向くと、吉川は笑顔を崩さぬまま万札を細い指先で摘まみ上げた。 「ねえ鬼崎……本当にいいのかしら?」  言葉の裏へ都合のいい正義をチラつかせ、明言を避ける女は最高に厭らしい性格をしている。  様々な組織が定めるルールの隙間を間一髪くぐり抜けて生きている鬼崎にとって、上下に様々なパイプを持った幹部候補生の脅しは、不本意ながら逆らえるものではなかった。 「クソうぜえ……刑事が一般人脅していいと思ってんのかよ」 「物事はケースバイケースよ。本題に入っていいわね?」  無言の了承を返すと、吉川は続いて依頼内容を話し始めた。 「一カ月前、飲食店勤務の笹山、大学生の野中、両名共に二十歳の男性が立て続けに殺されたの。二人は幼馴染よ。日も場所も別だけど、正面から鋭利な刃物で心臓を一突き。有力な目撃情報はなし、現場付近の防犯カメラも全滅。テレビで見たわよね?」 「知らねえ。興味ねえ」 「言うと思ったわ。容疑者も殺された二人の幼馴染で、金銭を搾取されたり、日常的に小間使いのように扱われたりしていた男よ。アリバイもないし、動機は十分」 「ほぼ解決してんじゃねえか」 「それがそうでもないのよ……」  わざとらしい溜め息を落とし、吉川は自身の肩を揉む。どこかやさぐれた態度には、進まない捜査に対する退屈さが現れていた。 「聴取する前に入院したの。背後から鈍器で殴られて、今も昏睡状態」 「めんどくせ……他に目星は?」 「洗い直したけど、笹山と野中に共通する知人がほとんどいないの。それぞれに対して動機がありそうな人間は数人いたけど、手口や傷口を見る限り同一犯としか思えないし、アリバイも裏が取れちゃったのよ」 「意識不明の野郎は全くの別件扱いか?」 「状況的に恐らく同一案件だろうけど……何せ手口も違うし、恐ろしいほど手掛かりが少ないのよ。今はなんとも言えないわ」 「無能共が」 「返す言葉もないわね」  にこやかに嫌味を受け流す吉川は、我が物顔でソファに背を預けた。 「八方塞がりっていうのかしら。害者には犯罪歴もなくて、片や仕事に真面目、片や勤勉な学生……容疑者の証言も見こめない。どうにかしてちょうだい、鬼崎」 「丸投げすんな」 「報酬なら弾むわ。お財布は寂しくなっちゃうけど」 「嘘吐け。お前のポケットマネーは一切痛んだことねえだろ」  吉川は肯定も否定もせず、ただニコニコと笑みを浮かべている。面倒な案件を持ちこむ人間は他にもいるが、鬼崎が断トツで吉川を嫌がるのはこういった態度による要素が大きい。捜査資料を簡単に横流しできるのも、高額な調査報酬を平然と支払えるのも、彼女のバックに違法捜査をさせられるだけの何かがついている証拠だ。吉川の記憶を覗いた日には、社会的に抹殺されそうな予感すらある。 「……一週間で七十だ。それ以下は認めねえ」 「あら、また吹っ掛けてきたわねえ」 「嫌なら帰れ」 「もちろん払うわよ。平和が一番だもの」  彼女の言う「平和」には、「私にとっての」という前提が含まれている。嫌がらせに近い金額設定にも二つ返事で頷いた吉川は、鬼崎が一週間で事件を解決するものと信じて疑わない。それはこれまで何度も依頼をこなしてきた鬼崎への、欲しくもない信頼を表していた。  つくづく罪を取り締まる側の人間に見えない女は、バッグから茶封筒を取り出す。  しかし、恐らく捜査資料が詰まっている封筒は鬼崎に差し出されることなく、これまで銅像のように黙って動かなかった男の手によって止められた。太い指が吉川の華奢な手首を掴んで押さえると、不気味なほどに変化のない女の笑顔が苛立ちを宿す。 「どうかしたの、天宮」 「吉川さんこそ、何してるんですか」 「見てわからない? 資料がないと鬼崎が調査できないでしょう」  口元を引き攣らせて何かを祈っていた男は、平然と宣う吉川へ小刻みに首を振る。 「駄目です。これ以上は情報漏洩です。万が一上に知られたら懲戒免職じゃ済みません」 「ええ、そうね。それが?」  吉川が男の手首を掴み返す。力勝負ではすぐ勝敗がつきそうなものだが、見つめ合う二人の勝負はどちらかと言えば心理戦に近いようで、膠着状態が続いた。  つまらない茶番を見せられる退屈さに欠伸を零す鬼崎を、天宮が横目に睨む。 「そういうことですので、さっきの話は忘れてください。俺たちは帰ります」 「あっそ」 「いやあね、駄目よ。言ったじゃない、話が終わるまで黙って待っていなさいねって」 「ええ、黙っていました。ですがいくらなんでも、目の前で違法行為が行われているのを見過ごすわけにはいきません」 「困ったわねえ、あなた、出世したくないの?」 「興味ありません」 「出世欲のない男はモテないわよ。ねえ、女性の手を力任せに押さえるのって、良心は痛まない?」 「刑事に男も女も関係ありません」  見つめ合う先輩後輩の間に、冷ややかでいて熾烈な火花が散っている。  すっかり熱源の迫った煙草を灰皿へ押しつけた鬼崎は、その手でパッケージから次の煙草を取った。正直、体内の有害物質含有量はオーバー気味であるが、何せ苛々が治まる気配を見せないのだから吸う他ない。  いつもは美味しい一口目に嫌気が差すことも腹立たしく、揉める二人を低い唸り声で一喝した。 「うぜえ、揉めんなら外でやれ」  すると同じタイミングで鬼崎を見た二人は、再び同時に顔を見合わせて口論を再開させる。 「ほら、鬼崎さんもああ言ってます。市民の安全を守り模範であるべき我々が、法を犯していいわけありません」 「もう少し頭を柔らかくしなさい。早く事件を解決したいでしょう?」 「当たり前です。ですから、ここで時間を浪費している事実が耐えがたいです」 「これ以上ないほど有意義よ。この事件は私たち警察じゃ解決できない。犯人は恐らく普通の人間じゃないから、彼の力が必要なの」  正義感の強い男は、吉川の真意を探るように口を閉ざす。今にも食ってかかりそうな勇ましい二重は吊り上がり、返答によっては正論で捻じ伏せてやろうと息巻いている。  だが吉川は余裕綽綽に軽やかな笑い声で場を惑わせ、傍観に徹する鬼崎へと小首を傾げて見せた。 「鬼崎、そうでしょう? だから受けるのを嫌がる。そういった事件しか持ってこない私を嫌う。『彼ら』の相手は疲れるから。自分の異質さを否応なしに思い知らされるから。違うかしら?」  鬼崎は何も言わず、まだ長い煙草を消してソファに転がった。二人へ背を向けるように身を捩り、おざなりに招かれざる客へ手を払う。 「二度と来んな。吉川、お前は目障りだ」  その悪態に反応したのは、何故か吉川ではなく天宮だった。 「目障りは……些か失礼すぎませんか」  カツ、と革靴の踵が硬い床を踏み鳴らす。  それでも寝入ったフリを続けていると、足音は二度三度と続き近づいてきた。 「捜査状況を聞いてしまった以上、あなたも関係のある話です。せめて起き上がって、真面目に聞くフリでもしたらどうです。聞いてますか?」 「あ、ちょっと待ちなさい天宮」  珍しく吉川の焦った声がした後、がっと肩を掴まれた鬼崎は目を見張った。  そして、次の瞬間――鬼崎の長い前髪を掻き上げた男の手が、無遠慮に額へ触れる。不意に他人と肌が接触するのを何より嫌がる鬼崎は、反射的に飛び起きた。 「……っ?」  しかし、いつもなら強制的に流れこんでくる記憶が一欠片も視えない。唖然とする鬼崎に気づかず、天宮は真剣に叱責を続けている。 「前髪が長すぎて顔が見えません。人と話すときは目を見る、が基本だと教わりませんでしたか?」  子ども相手にするような説教が、耳に入ってはどこかへ抜けていく。視界の端では吉川が狼狽えているが、今はそれをからかって馬鹿にしてやるだけの余裕もなかった。  手袋を外し、天宮の手首を掴む。それでも彼の記憶は、その姿をチラリとも見せない。 「なんだ……?」 「なんですか。離してください」 「鬼崎、素手で大丈夫なの?」  驚く吉川を完全に無視したまま、鬼崎は掴んだ手首を無理矢理引き寄せる。  ソファに片手をついて体勢を支える男の顎から頬を片手で鷲掴むと、天宮はその目に怒りを宿した。 「公務執行妨害で連行しますよ」 「やれるもんならやってみろ」  気分の高揚に合わせて、鬼崎の口角が上がっていく。無性に込み上げるのは、運命に打ち勝つ勝機を見つけたような無敵さだった。 「いいぜ、吉川。その依頼受けてやる」 「あら本当? ありがとう」  顔と手首を解放してやると、天宮は瞬時に鬼崎と距離を置いて構える。その反応は猛獣を力で服従させるような、傲慢で圧倒的な支配欲を鬼崎に与えた。 「ただし、調査には必ずこいつを同行させろ。それが条件だ」  ピンと緊張感漂う事務所に響いたのは、ふざけた女の楽しげな拍手だった。
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