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【3】
週末を待って、私と正脇さんは彼女のお姉さんが入院しているという病院を訪ねた。正脇さんは、出版社に勤める人間にとって休日がどれほど大切であるかを力説しながら、道中何度も半泣きになって私に詫びた。私は体力に自信がある為、一日くらいなんてことはないと笑って返した。一緒に暮らす私の姉はいつだって仕事で忙しくしているし、特にこの週末に用事があったわけでもない。
「あ、そうだ、これ」
電車を何本か乗り継いで病院へ向かう途中、丁度最後に降りた駅のホームで、正脇さんが財布から一枚の紙切れを取り出して見せた。
「これは?」
都内にある、遊園地の一日パスチケットだった。
「一枚しかなくて悪いんだけど、知り合いからもらってさ。だけど、今はそういう気分でもないし、もしよかったら」
「え、いいんですか? 私遊園地大好きなんで、普通に貰っちゃいますよ?」
「良かった。貰っちゃって貰っちゃって!」
ホッとした表情に赤みが差し、笑った正脇さんの両目に涙が浮かんだ。
相当参っているようだな、と思った。普段の仕事振りを見ても、正脇さんはとても責任感の強い人だ。単純に、後輩の休日を潰してしまった罪悪感もあるだろう。だが私が感じたのはそれ以上に、家族の逼迫した事態に気づいてやれなかった、自分自身への後悔であるように思えた。家族思いの人なのだ。
私は目を見開いて大袈裟な笑顔を作り、
「早く行きましょうっ」
と、正脇さんの手を取った。
正脇さんは涙を零しながらギュッと目を閉じ、「ごめんね」と言った。
病院に足を踏み入れる前からなんとなく、嫌だな、という気持ちになった。もっと言えば、敷地に侵入した時から異変に気が付いていた。
最寄駅の改札口を出た所でタクシーを拾い、そこから十分も経たぬうちに病院の敷地へと車は吸い込まれて行った。自分のタイミングではない唐突な侵入とその速度に、私の肌がゾワリと粟立つのを感じた。私はびっくりして車内から窓にへばり付き、病院の建物を見上げた。大きな総合病院の上から、午前中の眩い光が降り注いでいる。
だが私には、聞こえるのだ。物凄い数の、死者たちの声だった。
私は正脇さんと並んで病院の正面玄関の前に立ち、深呼吸を繰り返した。正脇さんはそんな私を心配そうに見つめながら、「大丈夫?」と聞く。正直、大丈夫ですとは言い難い。だが「大丈夫ではない」などとは口が裂けても言えなかった。
「何か、聞こえる?」
と、正脇さんが続けて聞く。
私は曖昧に頷き、明言を避けた。
私には霊感がある。そして私に備わっている霊能力は、自分自身の両耳に宿っている。誰かがいつしか『超聴力』と呼び始めたこの力は、普段の生活においても、制御を誤れば吐き気を催し倒れ込んでしまう程、遠く離れた人々の声を拾い上げてしまう。私は幼い頃に発現したこの能力を、異常に発達した聴覚なのだと思い込んでいた。だがある時から私の耳は、この世ならざる者、つまりは死者の声を聞いてしまっていたのである。
「秋月さん、本当にだいじょ」
「正脇さん」
「ん?」
「もしかして、ですけど」
「……うん」
「お姉さんは」
「……うん。何?」
「同じ言葉を何度も何度も繰り返し仰っているわけでは」
ありませんか?
私がそう尋ね終わる前に、正脇さんの手からハンドバッグがどすんと地面に落下した。
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